ギリシアにおける身体の発見

Holmes, Brooke, The Symptom and the Subject: The Emergence of the Physical Body in Ancient Greece (Princeton: Princeton University Press, 2010)
必要があって古代ギリシアにおける「身体」と「主体」の形成についての傑作を読む。古代ギリシアにおいて、ホメーロスの時代の人々はひとまとまりの「身体」という概念も持っていなかったし、さらに重要なことに、人格の中枢をなす「精神」「魂」という概念を持っていなかったという、有名なブルーノ・スネルの主張(『精神の発見』がある。今年の「身体の歴史」は、この説明から入ってから、ホームズの議論につなげようと思っている。そのために、2章・3章をチェックした。

スネルらが、ホメーロスにとっての身体は「四肢」であったとか、別の学者がホメーロスにとっての人格は、神々が干渉する開かれた場であったと論じているように、主体としての統一を持つ人格の概念はどのように作られたのか、そのうえで「身体」についての概念の変化がどのような役割を果たしたかというのが本書の主題である。それを論じるうえで、「見られた統一」と「感じられた統一」seen と felt という二つの概念を使い分けて論じる。

スキンによって囲まれている「見られた」人物は、人格の境界を想像する一つの方法であったが、それがただ一つの方法ではなかった。神やデーモンなどの力は、この領域に侵入する。それは力や勇気や苦しみを与える「息」としてでもあり、槍のようにも侵入したし、怒りを送ることでもあった。ここで重要なのは、「感じられた」統一である。しかし、それにもかかわらず、空間的な境界と身体化されたものというのは、人間と神々の間のインタラクションにとって重要であった。神々というのは、人間の国家に介入し、その運命を決めるという社会的な役割をはたし、もちろん人格的な性格を持っている。この身体の周りと内部と、外部の神々とのインタラクションが、「身体をもっている」という主体的な経験となっていたのである。

このパターンが、科学的な思考とともに「見られる」身体へと変わっていく。見られる身体が従う原理は、「熱・冷・湿・乾」などの自然の力であって、人格化された力がない、脱人格化されたもにになる。

これは、後にキリスト教や古代後期の社会で重要になる悪魔や悪霊などによる possession の概念とは大きく異なっている。そこでは、デーモンは身体という空間に「宿る」何かになっている。(bodily habitation) この憑依の概念が可能な一つの背景は、身体が、ある境界で区切られた、統一性を持った何かになっているからである。一方で、ホメーロスの身体は、比較的自由に神の息が入ったり出たりする場である。

この議論は、ヴァレリーが論じている「三つの身体」に少し似ている部分がある。ヴァレリーは、直接的な身体、形を持つ身体、そして科学が探究する皮膚の下の身体という区分で考えた。これを学生レポートで出そうかな。