ポール・ヴァレリー「身体に関する素朴な考察」

ポール・ヴァレリー「身体に関する素朴な考察」『ヴァレリー・セレクション』上・下巻、東宏治・松田浩則訳(東京:平凡社、2005 )、下巻237-253ページ。
「血液と私たち」という表題を付されたひとまとまりの内容を持つ断章群が一つ、「三つの身体の問題」という小文が一つからなる文章である。「血液と私たち」は、生命機能を人工的に代替する操作を通じて、生命体の本質は何かという問いを立てたものである。生物の組織や機能を人工的に外から供給したとき、生命の内部にある数多くの装置のうち、なしですませることができるものがかなりあるだろうということから出発した議論である。もう一つの「三つの身体の問題」は、それに加えて仮想できる「第四の身体」がおそらくもっとも有名な部分なのかもしれないが、前の三つというのは、スネル『精神の発見』や、Brooke Holmes の身体と症状と主体の議論と直結する重要な議論である。ヴァレリーによると、身体には三つの意味があり、第一は、我々が生きるそれぞれの時間ごとに、我々がそこにあることを前提としている身体である。これは、他人に聞かれると「私の身体」と答えるが、どちらかというと、「私が、その身体に属している」という性格のほうが強いほど、「私」という現象に密接に結びついている身体である。第二の身体は、人の視線に対する外見としての身体であり、それは鏡を通じて私にも観察される身体である。表層において成立する身体である。

自意識であれ外観であれ、どちらの身体についても、実は皮膚の下に存在する何かが存在すると考えさせる理由は何一つない。しかし、皮膚の下に複雑な組織があり、それらは精巧な装置であることが分かっている。これを第三の身体と呼ぶとすれば、これは、「第三の身体というものがあることになる」。この第三の身体の記述の仕方が的確である。そこから色々な色の液体が流れ出してしまい、さまざまな大きさの内臓があり、スポンジや壺や管のような組織がある。こうしたものをすべて薄い切片にして顕微鏡でのぞくと微粒子の姿が見えるが、「それは何にも似ていない」。

解剖学的・生理学的な身体の位置づけは、「あることになっている」という部分がキモである。その解剖を微細にしていって見えるものは、「何にも似ていない」ということも大切である。