日本の人口調節における中絶から避妊への切り替え

Blacker, C.P., “Dr Yoshio Koya: A Memorable Story”, Blacker, C.P., “Dr Yoshio Koya: A Memorable Story”, The Eugenics Review, 55(1963), no.3, 153-157.
日本の家族計画についての英語の論文集についての長い論評である。その書物は、厚生省の官僚で戦前の日本の優生政策の指導者であった古屋芳雄が中心になって編集したもので、いま CiNiiでチェックしたら、日本の大学図書館などでは九州大学だけが所蔵しているレアな資料である。

日本は戦後すぐに優生保護法を定めて中絶を合法化した。それに続いて「家族計画」の名称のもと避妊を広めようとしたが、これは政治家たちの抵抗、特に(この文献によると)地方部を選挙区とする議員たちの抵抗にあって、避妊を広める政策は頓挫した。つまり日本は、中絶を合法化して避妊が広まっていない状況で、戦後の人口転換による出生率の低下に乗り出したのである。この出生率の低下はめざましいものがあった。1947年の34.8から1960年の17.2 まで、戦後の13年間で出生率は半減した。その減少のかなりの部分が中絶に依存していることは確かである。この中絶に依存した人口転換を避妊に依存したものに転換するために、一連の家族計画に取り組んだのが古屋芳雄を中心とするグループであるという。古屋たちは、農村、鉱山、生活保護世帯、そして当時の国鉄などに、避妊を教える一方で、出生や中絶などを調べる詳細な調査を行って、人々を中絶から避妊に切り替えさせるのに成功したことを報告している。いずれのサンプルにおいても、避妊が広まり、中絶が劇的に減少し、出生率が下がっている。国鉄の職員と家族を対象にした実験は、大きな規模において家族計画を行う可能性を示唆した重要なものであったし、生活保護世帯における避妊の急激な採用は、古屋自身を驚かせた。英語から訳すと、「この人々において避妊が急激に広まったことは、我々を驚愕させた。そして、これらの人々が、戦争の災禍を受けたり病気になったりした不幸な人々であって、品位が低劣な人間の集りではないことを認識したのである」と古屋たちは書いている。

戦前は気に入らない人たちのことを悪しざまに書いていた古屋が、「低劣ではなくて不幸な人々」という台詞を吐いたのは、こちらにとっても驚きだった。高度成長期と人工転換期の「やればできる」という希望にあふれていた厚生省の姿を垣間見て、ちょっと目頭が熱くなった。そのときの鍵を握っていた理論装置が戦争と国民病だったということは発見だった。戦争の災禍が国民に共有されていた悲劇であったこと、結核を中心とする「国民病」という病気があったため、自己責任論や低能力論に向かわせない方向になっていたんだろうなあ。戦争と病気というのは、朝ドラの鉄板の主題だしなあ。