英語圏の考え方

今日は無駄話です。

Darwin, Charles チャールズ・ダーウィン種の起源』、リチャード・リーキー編、吉岡晶子訳(東京:東京書籍、1997)養老孟司が『種の起源』の図説・抄訳版に序文を書いていて、そこで不思議なことを言っていた。

19世紀の偉大な思想家と言えば、フロイトマルクス、ダーウィンであるが、このうちフロイトマルクスは影が薄くなった。これは、彼らの思想を形成し、それに意味を与えていた社会状況が変わってしまったからである。しかしダーウィンの思想は、現代の社会においてもまだ「生きている」。だから『種の起源』は読まなければならない。それが科学的に「正しい」理論であるかどうかは問題ではない。『種の起源』が死活的な重要性を持ってくるのは、現代がアングロ=サクソンが支配する社会だからだ。「だから科学論文は英語で書かなければ『ならない』のである」英語で論文を書くのが世界の常識なのである。その支配的な英語圏の人たちの考え方、そのもっとも基本的な部分に関わるもの、それが生物学では、じつはダーウィンの進化論として表現されている思想なのである。」

これは、養老先生がどこか別の文章でより詳しく展開している議論なのかしら。それとも、誰か他の人の議論なのかしら。たぶん、ものすごく面白いというか、はちゃめちゃな方向のいくつかのアイデアがあって、それらが断片のまま共存していて、まるでアフォリズムのようになっているのだろう。マルクスフロイトの時代と較べるとドイツ語の世界的重要性ははっきりと下落したこと、『進化論』が英語で書かれている著作であることはたしかに重要なポイントである。議論のコアは「英語圏の考え方」というものがあって、その基本がダーウィンにおいて表現されているという考え方なのかな。だから学術論文を英語で書くべきだという規範と同じだというのかな。これも、面白い議論で、かりに中国の生物学が未来において英語圏からの自立を目指すとしたら、ものすごく人気が出る考えなのかもしれない。