ナチスの断種法と精神病における遺伝的予後

Weber, Matthias M., “Ernst Ruedin, 1874-1952: A German Psychiatrist and Geneticist”, American Journal of Medical Genetics (Neuropsychiatric Genetics), 67(1996), 323-331.
自然科学系の雑誌に載った論文だけれども、歴史研究のプロの仕事である。著者は、ミュンヘンのマックス・プランク精神医学研究所の古文書館の文書館員である。ナチスの精神医療政策、特に精神障害者の断種政策に最も大きな影響力と深い関係を持ったエルンスト・リューディンの研究であるが、出版された論文・資料だけではなく、古文書館の資料に基づいた水準が高い研究である。

リューディンはスイスで生まれ、姉はチューリヒ大学の医学校に最初に入学した女性である。そこでリューディンの姉は、ドイツの社会ダーウィニズムと人種衛生学の指導者であるアルフレート・プレッツと出会い、結婚した。プレッツはリューディンに思想的にも知的にも大きな影響を与え、ハウプトマン兄弟やオーギュスト・フォレルなどの思想に触れさせた。プレッツのように、リューディンは医学を社会に適用して社会を改善することを目標にし、思想的には保守的・国民主義的・エリート主義的な傾向を持ち続けていた。フォレルから禁酒の思想も学んだ。彼は1916年に分裂病の遺伝研究を行い、1917年にはクレペリンに認められて、ドイツ精神医学研究所の系譜・人口部門の部長となり、一時期を除いて、1945年までこの職にとどまり続けた。

クレペリンの「早発性痴呆」概念は、リューディンの「経験的遺伝予後」のプロジェクトの中枢であった。いくつかの変化を内に含みつつ、早発性痴呆は一つの疾病単位であるという考えは、それが遺伝するかどうかという問いが科学的に意味を持つためには不可欠なものであった。クレペリン以外にも、ワインベルクなる医学者は人口を通じた疾病調査の方法を確立しており、この方法もリューディンには必須であった。医学だけでなく、オットカール・ローレンツという中世歴史学者で、ウィーンとイエナの大学で歴史学教授となった中世史の人物が導入した「系譜」「家系図」の概念も、疾病の遺伝研究に必須であった。

彼の部局は、当初は名称のみであったが、ルクセンブルガーやシュルツといった研究者が所属するようになり、実績を上げるようになった。1933年のナチスの政権成立とともに、ナチスからの大きな援助を受けるようになった。それと同時に、ロックフェラー財団も、彼の研究の重要性を認めて、巨額の寄付金をした。1938年から終戦までに約20万人の人物について、その精神疾患と家系図を調べ上げることができた。

ナチズムとの関係は、リューディンがナチズムに影響を受けたという言い方は正確ではない。1900年からリューディンが行っていた精神疾患の遺伝の研究は、ナチズム後も継続したとみるのが適切である。そして、その遺伝を予防する方策を実現できる可能性を持っていた政権がナチスであった。ナチスの思想と、リューディンの保守的な思想は親和性があったが、リューディンは、おそらく優生政策を行う政権であれば、どこであれ協力したことだろう。ナチスと協力することで、リューディンは人権や民主主義を暴力的に否定する政党の政策を正当化することになったが、彼はおそらくあまりそれを気にしなかった。1933年のドイツの断種法は、リューディンが書いたものではないが、その公的な注釈はリューディンによるものである。ナチスとの協力によってリューディンの研究部署はきわめて潤沢なものになり、1938年には秘書が48人、学者が12人もおり、諸外国からリューディンの方法を学びに来ていた。

しかし、戦争の開始とともに、リューディンの研究はむしろ停滞した。その理由は、ドイツの文化や科学についても影響力をふるおうとしていたSSとの内部抗争にあるという。有名なT4の精神障害者安楽死については、リューディンは拘わらなかった。しかし、自分の精神病院から重度の患者が灰色のバスで連れ去られて、しばらくすると不思議な死に方をしたという通知が合計7万件も飛び交っていた精神医学の世界では、ナチスが何がしているかということは明白なことであった。要職にあったリューディンはこの「安楽死」政策に反対・対抗するべきであるという期待もあったが、これには応じなかった。