個人の生権力と人口の生政治

Fassin, Didier, “Another Politics of Life is Possible”, Theory, Culture, and Society, 28(2009), 44-60.
久しぶりに出会った傑出した生権力論の論者で、なおかつ方法論的にシンパシーを感じる論者である。これまでこの論者の仕事を知らなかった不明を恥じる。南アフリカのAIDS論、トラウマ論、現代の人道主義的な活動の道徳哲学など、確かに私の研究には直接関係はないが、読んでおかなければならない書物をたくさん書いている。さっそく、著作を取り寄せている。

フーコーアガンベンといった思想家の生権力・バイオパワー論は、一つの知的な焦点になっており、日本でも金森修が優れた仕事を発表している。アガンベンや金森の仕事の洞察は深いが、彼らの分析に私が違和感を持つのは、現代社会についての理論を組み立てるための分析の具体的な事例が、ナチズムや強制収容所の分析に大きく偏っていることである。極限的な状況においてはじめて本質がさらけ出される可能性は否定しないが、アウシュヴィッツは例外的な事態と極限的な事態の双方を持っていたことも事実である。ことを思い出してほしい。

この論文は、フーコーの「バイオパワー」「バイオポリティクス」の概念について、それらが個人を対象にしたものか、集団を対象にしたものかという、重要な主題をまず論じている。この部分はフーコー論になっていて、私としては学ぶことばかりであった。論文の後半で、現在の社会・世界において、「生命」が駆動し限定する力となっていることを論じて、いくつかの雄弁な事例を提示する。たとえば、犯罪を犯して裁かれた人物が「健康上の理由で」刑の執行を停止されること。これは、人道に対する罪で裁かれた独裁者によく適用される事例である。あるいは、フランスに来た難民は、重い病気に罹っていると入国が認められ、病人として国内に存在することが許されること。あるいは、フランスに不法滞在をしていたケニアの男性が、AIDSに罹っていることが分かって、強制退去の措置を取り消されたこと。これらは、biolegitimacy (生命が提供する正当性)であり、biological citizenship (生命が構成する市民権)であると考えることができる。

もっとも目を開かれた部分は、フーコーのバイオパワー・バイオポリティクスの主題を、社会における不平等と結びつける視点であった。フーコーやカンギエームが人口水準でみたときの生命における不平等を論じる視角を持っていたことを示したあと(この事例は素晴らしいので、この部分だけでも読んでいただきたい)、南アフリカのアパルトヘイトは、もともとは19世紀末のペスト流行に対する検疫に起源をもち、健康上の不平等と密接に結びついていた事例などを紹介している。さらに、人口を対象としたバイオポリティクスにおける科学の役割、特に統計調査の役割に触れている。この、個人と人口を区別するという重要な問題を中心に据えるあたりは、やはり著者が医者であることと関係があるのかな。