初期近代における外科の上昇

中世から近世にかけてのヨーロッパの医学の歴史における外科学の変化をまとめて書いてみた。参考にしたのは Medicine Transformed の Schlich の記述。外科の歴史というのは、総じてテクニカルな進歩の羅列になってしまいがちだが、シュリッヒの記述はいつも素晴らしい。、

中世においては、physician と surgeon は、異なった職業集団に属している別々のグループであった。内科医は大学出で、聖職者や法律家とならぶステータスが高い専門職の一つであり、高い料金を取って社会の上層部を顧客の中心にしていた。外科は職人であって、ギルドを形成して徒弟制度で教育され、床屋・薬種商・青物商などの他の職人と仕事を共有しながら結びついていた。外科の仕事は、一般論で言えば、身体の外部を手で操作することであり、具体的には、傷の治療、とげを抜くこと、できものを切り取ること、瀉血のために静脈を切ること、軟膏を塗ること、歯を抜くこと、髭を剃ること、髪を整えることなどであった。手足を切断したり、膀胱結石を切りだしたり、トレパネーション、眼科の手術、ヘルニアの手術などは、大きな危険をともない、ごくまれにしか行われないタイプの仕事であった。当時の医療にとって中心的な治療法であった瀉血を、内科医が処方を出して外科に行わせるという事情もあって、内科医は外科を、自分たちが命じて手仕事を行う従属的な存在だとみなしており、建築家が石工に対して持つ関係と似たものがあった。

しかし、17-18世紀に、北方ヨーロッパにおいて、外科の上昇がはじまる。かつての多様で雑多な仕事の中から、いくつかのものを別の職業にまかせるようになる。たとえば、床屋業は、ロンドンでは1745年に正式に外科のギルドと床屋のギルドが分離した。教育についても、親方について徒弟修業を数年間行うというかつての訓練の形式を補う形で、大都市の病院での実習や、医学校における講義などが付け加わるようになった。1691年にパリの外科学校が設立した半円形講義室は、外科を学ぶものが経験するようになった新しい理念を象徴的に表すものであった。外科は、内科医の教育に類似してきたのである。
 外科は内科医学とは別の自律的な道を進むという経路と、内科医学と融合するという経路の二つがあった。当初は前者の道が取られ、18世紀から後者の道が取られた。特に、軍隊において内科疾患と外科的な創傷の両者を扱える医者を訓練するために、1724年にプロシアのフリードリヒ・ヴィルヘルムI世(在位 1786-97)がベルリンに設立した Collegium Medico-Chirurgicum は、内科と外科を融合した教育機関であり、類似の施設がウィーン、ドレスデン、サンクト・ペテルスブルク、コペンハーゲンで設立された。フランス革命下の医学教育の改革の中で、パリの病院にベースをもつ医学校において内科・外科が融合統一されたことは、19世紀前半にはパリが世界中から医学生をとり入れて、各国に影響を与えたこともあって、各国の医学教育全般に大きな影響を与えた。