外科の上昇(2)

 一方で、ドイツでは、19世紀には、かつての床屋外科と、大学で教育を受けた外科は、並行して存在し、床屋外科が消滅したのは19世紀の末であった。その過程において、床屋外科として訓練を受けて出発した外科たちが、大学が提供する教育機関からさらに教育を受けて自分の資格をアップグレードすること、あるいは自分の子供たちには大学で教育を受けさせるという現象が現れた。何世代もかけて、新しい教育と訓練の形態に適合していった時代であった。

たとえば、南ドイツで18世紀から20世紀までにわたって7代にわたって外科を営んでいたパルム家の系図をみると、その適合の様子が分かる。まず、初代のJakob Christianは床屋外科であり、その職を受け継いだ息子もそうであった。3代目の Wilhelm Friedrich は、まずは床屋外科であったが、ウルムで市の外科となり、1812年には大学の試験を受けずに国家試験をうけて内科医の資格を得た。4代目のJohannes は、同じように徒弟修業で外科を学んだが、軍医の経験ののち、1816年にテュービンゲンの大学で学んだ。しかし、古典語を学んでいないため、国家試験を受けることができずに、外科と産科の資格だけを取って大学を去ってウルムに戻った。しかし、ウルムでは内科系の疾患も治療したため、街の内科医たちから攻撃された。もう一度内科医の資格を取ろうとしたが、再び拒絶され、攻撃は激しくなって彼は投獄された。このような試みを繰り返したあと、1822年に、ついにシュトゥットガルトで国家試験を受けて内科医としての資格を得た。その前年に生まれた Carl George Matthaeus をはじめ、5代目、6代目、7代目は、すべて大学で資格を取ることとなった。