アイヌのイムについて

秋元波留夫「アイヌの所謂『イム』に就いて」『蝦夷往来』7号(1932), 1-10.
秋元が1932年に出版した論考は、内村祐之の研究室が初めてイムに出会ったことを報告したものであり、重要なマテリアルである。秋元は後に東大教授となるが、この論文の時点では、東大精神科を卒業したのち、内村の研究室の助手を務めていた。
 イムは榊保三郎が1900年頃に室蘭・日高平取のアイヌを観察して報告して以来、精神病学の専門家の注意の対象にはなっておらず、榊が『東京医学会雑誌』にドイツ語で発表した内容は、オッペンハイムの教科書などのドイツの教科書にも採用され、国際的に標準的な記述となっていた。秋元ら内村の研究室はイムの発見を試みたが難しく、最初に発見されたのは1931年の夏であった。秋元が、1931年の夏に、日高沙流川付近で、ピラトリを中心にして、平取村のニナ、サルバ、シウンコツ、ニブタニ、ヌキベツなどのコタンや、門別村の幾つかのコタンでイムが発見された。これには、道庁の竹谷社会課課長、平取村長の本庄なる人物、そして同村の吏員でアイヌ出身の二谷文次郎の協力による。道庁と村長の協力はこの論文ではよく分からぬが、論文の記述からは二谷がインフォーマントとして重要な役割をはたしたことは明らかである。二谷は秋元をイムである老婆のもとに案内し、秋元の眼前で「トッコニイ」と叫んでイム発作を起こさしめ、同じようなことを別の女性で繰り返し、さらにはその晩、自宅にイム女性を招いてユーカラやヨイシヤマネで宴会をしている最中にも「トッコニイ」の一声で発作を起こさせて、女性をからかった。
 もう一つ重要なことは、この論文を榊の論文を較べた時に、秋元は「原始状態の精神」を中核に据えて症状を再整理していることである。榊は、イムは反響言語、反響動作、驚いて飛び上がる、強迫性行為、衝動性行為、恐怖という6つの症状からなるとした。これは、比較精神病学ですでに知られていたジャンピングやラターなどとの共通性を考えた症状の整理である。しかし、秋元は、症状を整理し直して、反響症状、防衛的態度・行為、淫語・色情的行為という三つに編成した。特に、男性に抱きついたり睾丸を握ったり自分の性器を露出したりする色情的行為については、榊は強迫性行為と考えていたが、ここには命令拒絶は含まれていないとして、色情性を三つのうちの一つの中核に据えた。これは、最終的には、イムを原始的な精神反応と考えるための編成であったことは間違いない。反響症状は自己が受動的になること、防衛行為は「窮鼠猫を噛むよう」ような動物の反応、色情行為も高度精神機能である理性からの逸脱である。