フリオ・コルタサル『遊戯の終わり』

フリオ・コルタサル『遊戯の終わり』木村榮一訳(東京:岩波文庫、2012)
人に勧められて、フリオ・コルタサルの短編集を読む。

コルタサルはベルギーで生まれアルゼンチンで大学を出てフランス文学の大学教員となったが、1951年にはフランス政府給費奨学生として出国し、その後は終生パリで執筆活動を行った作家である。その人生からも分かるようにヨーロッパ風・都会風の感性を持つラテンアメリカの作家であり、例えばガルシア=マルケスの『エレンディラ』などの作品から感じられる土俗的な不思議さのラテンアメリカ文学とは全然違う感じがする。より硬質な不思議さといえばいいのかな。

気が利いた言葉が浮かばないが、「メビウスの帯」「エッシャーの不思議絵」「現実と夢の連続」「正常と狂気の表裏一体」というのだろうか。現実の世界から、夢、悪夢、狂気、混沌の世界へと、まるで一筆書きのように記述が進んでいく。たとえば「山椒魚」では、水族館の山椒魚を何日も続けてガラス越しにじっと眺めているうちに、自分の意識が山椒魚のそれになってしまうことについての短編であり、山椒魚になった主人公は、ガラス水槽の向こう側からじっと自分を見つめている男をみては「いずれ彼がぼくたちについて何か書いてくれるだろう」と考えて物語を結ぶ。「夜、あおむけにされて」では、病院に運び込まれた患者は、アズテカ族の戦士に追われて心臓をえぐり取られる夢を生きていくうちに、その夢が現実になる。「バッカスの巫女たち」では、ある町のオーケストラの指揮者を崇拝する女たちが、演奏が進むにつれて興奮して平土間になだれ込んで楽団員たちと狂乱の場を作り出す。一番独特な雰囲気なのが、セーターを着ようとして、頭と腕がどうしても袖や襟を通らなくて色々としているうちに、まるで別人の身体のようにコントロールが効かなくなってセーターの中の世界が解体していく「誰も悪くはない」という作品だった。

改めて、精神異常という主題が、20世紀にとっていかに重大であったか、そして自分がこの重要な主題の表面をひっかいた程度のリサーチしかしていないことを実感する。