子母澤寛『味覚極楽』と東京・関西の料理

子母澤寛『味覚極楽』
人に勧められて、子母澤寛『味覚極楽』を読む。もともとは、当時は東京日日新聞の記者であった子母澤が、昭和2年から3年にかけて、当時の名士が美味について語る企画を連載した32編の記事がもとになっている。このそれぞれに、昭和32年に子母澤が思い出的な随想を書き足して一冊の書物としたもの。32人の名士にインタヴューしたことになるが、華族、政治家、軍人、文化人、芸能人、実業家、僧侶など、多様な職業から選ばれており、女性からも大倉久美子さんという男爵夫人が一名、外国人としては「インド志士」として紹介されているボース氏が入っている。軍医総監の石黒忠悳や彫刻の高村光雲などの有名人や、千疋屋や資生堂など東京の名店の社長なども出てきて、それも楽しい。

数えたわけではないけれども、よくあげられている料理は、寿司、天ぷら、そばといった江戸・東京の古典的な料理が圧倒的に多い。それに中華料理が少し、西洋料理はそれよりも少ない。日本の各地の名産的な食物はよくあげられている。石狩のしゃけ、富山のます寿司といったものである。これらについては、それぞれの名士たちは、鷹揚さのようなものを示しながら美味について語っており、味覚の文化圏の中枢に位置する自信のようなものがうかがえる。それに対して、大阪や京都の料理への言及は極端に少ないのが面白い。わずかしかない言及は、強烈な対抗意識がうかがえる。天ぷらについて「大阪や神戸の人間にはわからねえのが当たり前だが、東京の人に一つこれはうまくねえどうしたっとこういって腹を立ててもらいたくって待っていたんだ」、男爵夫人は「関西へ行っては大体につけ味があまりくどすぎて、私にはどうも好きになれません」。一方で、総じて関西をたたえる名士もいるし、全般に味付けは関西にはかなわないとシャッポを脱ぐ名士もいるが、しかし天ぷらと寿司は・・・という方向にいく。「天皇の料理人」の秋山は、文化人類学のような東西分析をしてみせる。つまり、東京は器物をそこへおいたまま箸で食物をつまみあげ、関西は器物を手に持ってすぐ口のそばまで運んで食べるから、関西はおつゆがついて舌の上に来るし、東京はつゆを置き去りにして物だけがくる、東京の人が関西料理について「塩味が足りない」と思うのも、関西の人が東京の料理について「塩が強い」と思うのは、このせいであると主張する。関西は、東京の味覚の帝国の中に組み込まれていない、東京と並立し、場合によってはそれよりも優れている可能性すらある別のシステムであった。日本各地の名産は、もちろん美味であるパーツもあるが、それは東京の味覚のシステムを多様にして豊かにする宝石たちであった。関西は、このシステムの内部に組み込まれているとは、当時の東京人は思っていなかった。このシステムの中で、西洋料理の問題は面白い。それがどのような位置を占めるのか、公式には西洋料理が文化的正当性の頂点にあるのに(本当か?)、なぜ言及が皆無と言ってもいいほどなのか。