戦没者の霊の問題

石川公彌子「近代日本人の死生観」『死生学研究』「特集号―東アジアの死生学へ」、18-33.
日本人の死生観というより、国学者本居宣長平田篤胤、民俗学者の柳田國男折口信夫の死生観の研究であるが、非常に面白い史実を指摘して鋭い考察がされていたのでメモをする。

生と死、生者の世界と死者の世界、霊魂の役割、神の役割などについて、近世の国学者たち思想を大きく異なっていた。本居宣長は、この世は「顕事」(あらはごと)と「幽事」(かくりごと)から成り立ち、前者は人事全般、後者は神事であり、それぞれ、アマテラスの子孫である天皇と、オオクニヌシが掌握している。「かくりごと」は、「あらわごと」を補佐し、その根本にある。また、人は原則として死ぬと薄暗く汚い「よみの国」にいくが、位が高い人間は、霊魂を死後も現世にとどまらせることができる。これに対し、平田篤胤は、より「幽世(かくりよ)」の重要性を強調した思想を展開した。幽冥は顕国のいずこにもあって接しており、人間の霊魂はいずれも幽冥に赴いて永遠の存在となり、そこではオオクニヌシに帰順して彼に裁かれる。つまり、死者は永遠にこの国土におり、幽冥での裁きは現世に反映される。これは救済論であり、現世における日常倫理として成立している。

柳田や折口が生きた時代においては、戦争による死者が非常に重要な意味を持った。戦死した兵士たちの霊魂が故郷に帰ってきたという民間信仰は、死者にとって「家」がどのような問題を持っていたのかという問いの切実性を反映している。柳田は平田篤胤に近い現世―幽冥の理論を持っていたが、第二次世界大戦による大量の戦没者の問題に直面して、彼らがそこに行く「幽冥」と、彼らの霊に与えるべき位置の問題である。特に、イエと子なくして死んだ人々、従来の霊魂観でいくと無縁仏になってしまう人々が、子孫に祀られない徘徊する霊魂とならぬよう、彼らを祖とするイエをつくるように提案する。非血縁者の子孫が作り出すイエを媒介とした共同体をつくり、これが「国」となるようにする考えであった。

実際に養子を戦死させた折口にとっても、「未完成霊」と呼ばれるものになると考えられていた戦没者の問題は重要であった。折口は柳田とはことなり、祖先信仰やイエの概念から霊魂論を切断し、未完成霊の概念を否定して、すべての霊魂は完成霊であると説いた。これは、神道を普遍宗教にすることでもあった。