昭和2年の孤食批判

幸田露伴全集の「史伝」に収録されている「日本武尊」を読んでいたら、天皇の食事(大御食 おおみけ)に参列するかどうかというエピソードを論じているときに、露伴が孤食と会食について論じている箇所があった。「禽獣は孤食することを悦び、人は会食することを喜ぶ」と露伴はこの文章を始める。禽獣は食があればかならずこれを同類と争い、自らの小片を食いちぎっては一匹で食べられるところに持ち去って食べる。対して人は、一族朋友は言うにおよばず、他郷のものとも美しい感情をもって会食する。ここに礼儀があり、平和の心、共存共栄の大なる幸福への志向がある。アイヌのごとく胡座して酒を飲む場合でも、インド人のように片肌脱ぎで指で飯をつまんでも、やはり礼の道の進んでいるのである。であるから、一家族打揃って朝食を食べるのは、めでたき礼であり、朝食の正しく行われる家は、平和と幸福と正義と発展向上の機が存する家である。朝寝や不取り回しのため、あるいは不快や不満や心理上のある理由のために朝食の席に列せぬもののあるごときは、その家の不吉を物語るもので、その不参列者はその家の日常礼儀の破壊者であり、その家に背くものであり、忌むべくにくむべきものであり、そういうことが繁々になればその家は明らかに衰運に向かっていくのである。「挙案斉美」なる中国の戯曲をひいて、これは家庭食事と礼儀の美しさを描いたものであるが、我儘でだらけた妻、不品行で勝手な息子は、とにかく朝の食事に外れるものである。であるから、日本武尊が、天皇の大御食に参じない兄を「つかみひしいだ」のは痛快であるという。

これは、昭和3年に大阪日日新聞、東京日日新聞に『水月記』として連載された作品の一つであるが、東京と大阪の中産階級の家族たちは、朝ご飯を一緒に食べないと我が家は衰運に向かうと叱責されたのだろうか。露伴がこれを書いた一つの理由は、礼儀と道徳の発展の基礎としての家庭の規律が危機にさらされていると思ったからだろうか。精神病患者の症例誌では、たしかに、同じ時間に寝ないこと、夜更かしすること、外出することなどが問題になっているし、食事についてもしばしば言及されている。よし、これを分析してみよう。