1860年代以降のイギリスのコレラ対策

Hardy, Anne, “Cholera, Quarantine and the English Preventive System, 1850-1895”, Medical History, 37(1993), 250-269.
必要があって、1860年代以降のイギリスのコレラ対策について、若き日のアン・ハーディが書いた論文を読む。厚みがあるリサーチから、深い洞察を語る彼女の奇を衒わない筆致は、イギリスらしい成熟した歴史学の雰囲気を医学史に持ち込んだものだった。

ヨーロッパのコレラの歴史というと、その多くは1830-2年のヨーロッパ中心部への最初の流行に集中している。この論文は、1850年以降、特にイギリスが最後のコレラ流行を経験した1866年以降に着目している。イギリスは1866年の流行を最後に、コレラを離脱した最初のヨーロッパ国家になった。ロシアや東欧、地中海沿岸はもちろん、フランスでもドイツ圏でもコレラの大規模な流行は1890年代から20世紀初頭まで続いていたのに対し、イギリスはそれよりも30年以上早くコレラの流行圏から脱することができた。その間、ヨーロッパ諸国はいまだに検疫の方法に頼っていたのに対し、イギリスは世界の通商の自由を第一に重んじる経済的・政治的な思想のもとにあり、検疫を用いないでイギリスへのコレラの侵入を防ぐ方法がとられた。その方法は、港における船員の健康検査や病気に罹ったものの隔離の権限を徐々に持つようになった港湾衛生局の設立であった。この港湾衛生局は、ヨーロッパでのコレラの流行の情報を得て、それに応じてイギリスに入国する船を検査し、あるいは港湾で労働するものたちの生活環境を衛生化することを行った。これは、当時イギリスのそれぞれの地方自治体を衛生政策に向かわせていた公衆衛生を、港湾に適用し、そのために各地の衛生を行う組織を調整する権限を明確にした。むろん、イギリスは島国であり、1890年代に流行を経験しなかったというのは、幸運も作用していたが、これらの方法が実施されたのと、イギリスがコレラ圏から離脱した時期が一致しており、これはイギリスの方法の優越性のあかしだと解釈されていた。

・・・余分なことを言うと、「実験だか細菌だか知らないけれども、なぜコッホとかいう学者の言うことを聞かなければならないのか?ドイツでは、1892年に2万人も患者を出したじゃないか」という実用性があったのだろう。