16世紀パドヴァの臨床教育



Bylebyl, Jerome, “The School of Padua: Humanistic Medicine in the Sixteenth Century”, in Charles Webster ed., Health, Medicine, and Mortality in the Sixteenth Century (Cambrdige: Cambridge University Press, 1979), 335-370.
16世紀のパドヴァ大学は、ギリシア医学のテキストの復興に端を発する人文主義によって、古典医学の素晴らしさに帰ると同時に中世的な医学から離脱する革新的な改革が行われていた。その復古と革新を象徴する事蹟として、1530年代から40年代という比較的短い期間に起きた3つをあげることができる。『人体構造論』(1543) で有名なヴェサリウスを任命し、解剖学を年に一度の季節労働的なイヴェントから常設の科目としたこと、大学医学部の植物園を開設したこと(現在は「オルト・ボタニコ」として世界遺産になっている)、そして大学における内科医教育に病院での実習を組み込んだことである。特に今回は病院での実習の部分を読んだ。

病院を医学教育に使うことは、中世のイスラム世界と東ローマ帝国のエリート医師の養成で見られた現象であるが、中世の西欧では状況が異なっていた。内科の教育は知的な教育機関としての大学という仕組み、外科の教育は職人の訓練の徒弟修業とギルドによる認定という仕組みで行われており、病院は教会や慈善の場であった。自然哲学に基づく学問としての医学、実地で行われる技としての医学、貧者に与えられる慈善としての病院という社会的な装置の三者が、医学教育の中でまったく一致していなかった。

人文主義がもたらした古代のテキストへの尊敬は、テキストがあらわす事物への高まった関心を生んだ。ガレノスのテキストが言う臓器とは、具体的な人体においては何処の何にあたるのか、テオフラストスが言う植物は、どこに生えているどの植物なのか、そして、古代のテキストが記述する病気は、病人に現れるとしたら、どのような形をとるのか。彼らが復興しなければならないのは、古代医学のテキストだけではなく、テキストを通じた修得される医術であった。だからこそ、医学における人文主義は現実の事物への関心を高めたのである。

ジャンバティスタ・ダ・モンテは、「もしピタゴラス派が言うように魂の転生が起きるとしたら、彼にはガレノスの魂が宿っている」とまで言われた、人文主義者の医師であった。ダ・モンテが行った重要なことは、講義と臨床教育を組み合わせ、それを魅力がある教育の形式として確立させたことであった。彼は、パドヴァの病院であった聖フランシス病院の医師職を引き受け、その病院に自分の大学での学生を連れていくという臨床教育を行った。中世の大学の内科医教育がいくら知的な自然哲学を重んじていたとはいえ、医学が実地の技であることは当たり前だから、課目外の扱いで、著名な医師の実地に伴って教えてもらう実地研修は、中世の医学において行われていた。ダ・モンテが行ったことは、中世の医学教育で行われていたことを一歩延長したこと、そしてそれを非常に成功させ名声を高めたことである。このシステムは、ヨーロッパの他の大学でパドヴァ帰りの医者によってコピーされるような成功例となった。

何度も読んだ論文だけれども、今回も心に響くものがあった。ううむ。

画像は、ヴェサリウスとオルト・ボタニコ。