戦前・戦中期日本のPTSD

櫻井図南男「事態神経症の発病機序に就いて」『福岡医学雑誌』37(1943), 577-584.
下田光造の弟子で戦争中は戦争神経症の研究を発展させ、後に九大の教授となった櫻井図南男の論文の一つ。クレペリンから呉秀三が持ち込んだ一つの柱が脳の病理解剖であり、呉の後の精神医学者たちは、それと並行して、特に神経症の説明に関して心理的な機構の説明を発展させていくことになった。戦争中の神経症は、この流れの中に定位された。櫻井は、戦争神経症に、災害神経症や補償神経症などを加えて「事態神経症」という名称でくくり、これを理解する心理的な議論の構築に励んでいた。正しいかどうかは私には判断できないが、とても優れた独創的な議論であり、下田の弟子の名に恥じない。

事態神経症は心因性の身体症状であり、三つの条件が必要である。1) 身体―精神の間の平衡が破綻し、身体症状に転化・放出されるためのエネルギーが余っていること、2) エネルギーの放出に方向を与え形式を決める素質的な準備があること、3) エネルギーは持続的に補給されなければならないから、そうなるための「過価観念団」、病的な観念団が存在すること。これは、欲望についての人格の構造に関連する話であること。

事態神経症は、工場、鉱山、鉄道、軍隊における傷痍のあとに生じるものであり、それ以外の場所では生じない。ここでは、被害に対して、自己の責任で処理しなければならないわけではなく、法規によって保護され補償が定められていると考えられ、賠償願望が発生する。すると、その主張の根拠となる傷痍が簡単に治っては困るので、病気が重くなるように望むことになり、疾病願望が「エピチミー装置」を動かして半意識的な願望として現れたものが神経症である。これが純然たる意識的な過程なら意志行為として佯狂となる。

しかし、賠償願望を中心に据えるこのモデルは、説得力があまりない。彼らは賠償の機構について無知であることが多い。むしろ彼らにとって重要なのは責任の所在の問題である。彼らと誰が、責任の所在についてどのような関係があるのかという観念である。これを下田は「関係概念」と名付けたが、この関係概念こそが事態神経症にとって重要である。常人は、この「誰か」と責任の所在を明確にする関係において、長く拘泥せず、要求するものを要求し、諦めるべきことは諦めて、その関係概念から離脱する。しかし、事態神経症の患者にとっては、この関係が心的体制を作り上げる。そのため、環境は圧迫的・攻撃的なものとない、患者は好争的・要求的となり、この関係が固定する。

国家的に考えれば、自己の病気のことばかり念頭にはおけず、家庭からみると、その主人であることは重要である。しかし患者はこの関係を忘れてしまい、その関係のみが過価的な (ueberwretig)なものになり、他の場面を圧倒し、強迫的に患者の前に現れることになる。彼らは国家や家庭のことを完全に忘却しているわけではない。そのために治癒したいという治癒願望も持っている。しかし、この治癒願望は、それと対蹠的な疾病願望と共存するものであり、いずれも半意識的なものになる。どこかで「症状を重く見せよう」とする欲望が現れるのである。

国家・家庭に属していること、それに貢献しなければならないことというのは、本来は治癒願望を駆動するものである。しかし、ある関係概念に「はまってしまった」患者は、国家や家庭を忘れてしまい、疾病願望を持つようになる。これが1943年の理解であった。戦後、この問題についての理解は、ある部分では変化し、ある部分では連続するだろう。