パノフスキー『<象徴形式>としての遠近法』

エルヴィン・パノフスキー『<象徴形式>としての遠近法』木田元監訳、川戸れい子・上村清雄訳(東京:ちくま書房、2009)
何の必要だったのか忘れたが、しばらく前に何らかの必要があって買ったけれども読む時間がないままその必要が消えてしまった本である。広い洞察と深い構想力で、生きている間にこの書物を読んでおいてよかったと思わせるような一冊だった。

議論の核は、現在の私たちが慣れ親しんでいる遠近法は、自己の世界のあり方の双方を変革した思想的な構造であり、遠近法を受け入れ、その視覚的・具体的な表現を精神の中に内面化することは、ある象徴形式によって世界を見るようになり、それに合わせて自己を定位する思想上のできごとであったということである。

この書物はもちろん思想史であるが、それと同時に、最重要な素材はいわゆる思想家の著作ではないし、分析の手技も、通常の思想史のように思想的なテキストの中の言葉や概念を問題にするものではない。遠近法で絵を描くということは、世界はどのように見えるべきか・描かれるべきかという問いに対して絵画で答えることであり、そのように世界を見る個人の視覚と精神はどのようなものであるかを無言のうちに言明するものである。このように表面においては非言語的な行為を素材にして、パノフスキーはその思想上の構造を言語化している。その際につかわれる、古代やルネサンスの思想家や美術家の言葉は、行為を無言性から解き放つ役割を果たしているといってよい。

この部分を強調するのは、ここにあるのが、私がずっと考えている、医学理論の歴史と医療行為の歴史を結びつける方法論的な軸はなんだろうかという疑問に対する大きなヒントと範例だからである。かいつまんでいうと、医学史は、医学理論の歴史と医療行為の歴史に分裂した。前者は医学者が使っている理論を、思想上の概念がひろがる空間図の上で分析し、後者は、医療の実践を社会経済文化的なアスペクトで考察している。どちらも目を見張るような成果を生んで素晴らしい洞察を導いたが、両者の成功ゆえに医学史は分裂してきた。しかし、医療の理論だけでなく、その実践も、医者と患者・病気についての思想的な構造を持っているはずである。瀉血法でもロボトミーでもなんでもいいが、治療という行為は、ある思想的な構造も持っている。それを読み解く仕事は、少なくとも私にとっては難しい。その仕事の導きの糸に出会ったといってもいい。

で、何の必要があって読もうとしたのかは、結局思い出せなかったけれども(笑)