山本茂実『あゝ野麦峠』

山本茂実あゝ野麦峠
近代日本の経済発展のうち輸出を牽引したのは絹の製糸であった。絹糸の輸出で得た外貨は、日清・日露戦争の軍備を整える基礎となり、「女工がお国のために働く」というのは当時の日本にとっての現実そのものであった。長野の諏訪湖畔には、諏訪・岡谷などの製糸の企業が生まれて栄え、明治中期から周辺地域から多くの女工が集められた。その中で、飛騨と信濃の間にある「野麦峠」を超えて多くの女工が製糸工場に行き、成功したものは一年間働いて貯めた金を持って故郷の両親のもとに帰り、病気を得たものは背負われてこの峠を越えた。Wikipedia が言うように、映画は悲惨さを強調した感傷的で単調な作品だが、著作のほうは悲惨さを描くだけでなく、それを近代日本の大きな動きの裏側に確かな仕方で織り込んだ傑作である。

農村から来た娘たちを待っていたのは峻烈な競争社会と能力主義であった。手先が器用で要領がよく、多くの絹糸を上質に紡ぐことができる女工は、「百円女工」という言葉があったように、多額の現金をもらい、それを故郷の両親に持ち帰っては、正月に地元の呉服屋で札びらを切って晴れ着を買うことができた。当然、彼女たちは色々な工場が奪い合うことになった。一方で、能力が低くて手先が不器用か、性格が女工の暮らしへの適性を持たないか、あるいは病気に罹って働けない女工は、工場の監督に非難・折檻され、家に送り返されたりした。結核にかかった女工が家に帰ると、遺伝性の病気として家の恥とされ、家人は患者を隠して外に出さず、子供たちはその家の前を通るときには息をしないで走って行った。できることと言えば、石油や生きた蛙や鶏の生血などの怪しげな民間薬を飲ませるだけであり、金持ちの家では猿の頭や人の生き胆さえ試すこともあったという。

能力と適性によって明暗がくっきりと分かれるさまがあり、その一方で、結核という病気が相手を選ばないかのように女工たちを食い荒らすありさまがある。女工たちを律していた能力主義と過酷な優勝劣敗の体制のなかだったからこそ、結核がもつ無差別な破壊性は際立たされたのだろう。よく調べれば無差別ではなく、いい女工の罹患は低かったのかもしれないけれども、その部分よりも、結核が相手を選ばぬ殺し屋であること、それに見込まれたらたとえ優秀な女工でも逃れようがないことが強調される文脈であった。だから、結核は「国民病」になることができたのだろうか。