東京の空襲と精神病

植松七九郎・鹽入圓祐「空襲時精神病―第一篇 直接空襲に基づく反応群」『慶應医学』25巻、2,3号(1948), 33-35.
昭和19年11月から翌年8月までの東京で空襲の際に発し、空襲に直接的に関係する精神疾患で、主として心因反応によるものを扱う。この9か月間の東京で、植松の慶應精神科のチームが集めた患者は17人(男6人、女11人)である。これらの心因反応はクレッチマーのいう「原始反応」が多い。これは、東京がすでに「銃後」ではなく「戦場」になっていたからだというのは、本質を突いた議論である。

しかし、ある意味で驚くべき議論は、この症例の数についての議論である。植松らが患者を集めたのは、すさまじい空襲にさらされた東京であり、8か月という長い期間にわたって患者の収集が行われた。植松自身が「数百万の戦災者と数十万の死傷者を出した」と書いている。その中で、彼らのチームが16例という数の症例しか集めていないということは何を意味するか。植松は、これは大海の一滴であるとは思っていない。この調査はかなり広範にわたり、慶應神経科と松沢病院、そしていくつかの私立の精神病院の協力を得て行われているという。三鷹の中島飛行機工場の爆撃においても、太田の工場、八王子を壊滅させた空襲においても、それらは心因反応の精神疾患をほとんど起こさなかったという。それは空襲において、確かに身体的には疲労していたかもしれないが、疾患への逃避も賠償への要求も不必要で無意味であり、心因反応を起こすメカニズムがなかったからだという。都民は自らの手で一身一家を守る必要があり、個人間の対立意識よりもむしろ共同社会的精神があったという。そこには敗戦の意識はつゆほどもなく、精神的緊張を持続しえたという。また、神経症になるような候補者がいちはやく危険区域から疎開していったからであるという。

植松の議論はつまりこのようになる。東京の空襲のあとの心因反応はごく少なかった。東京都民は心因反応にいたるような構造のもとで生活していなかった。そこには精神的緊張と共同体精神があった。私には、この議論の妥当性を云々する資格はない。いくら信じがたいことでも、東京空襲では本当に16人の心因反応の精神疾患の患者しか出なかったのかもしれない。重要なことは、植松がそう信じようとしているということである。たぶん、もっと複雑なのだろうけれども、ここでは、植松七九郎が、戦争のイデオロギー・総力戦の心理的な体勢を使って考えていることが重要である。植松によれば、東京都民は、あれだけの空襲のあとでも緊張した心を保っており、心が失調して荒廃していく精神的な敗戦の道を歩いていなかった。そして、この論文を1948年に出版したということに、植松にとってまだ戦後の理論への切り替えができていなかったことを意味する。