18世紀イングランドの「薬種商」の上昇

Corfield, Penelope J., “From Poison Peddlers to Civic Worthies: The Reputation of the Apothecaries in Georgian England”, Social History of Medicine, 22, no.1, 2009: 1-21.
傑作の論文で、フルテキストがオープンアクセスになっているから、大学院レベルの医学史演習のリーディング・リストの定番になるだろう。長い18世紀に、医師―外科医―薬種商の三つの別の職業にわかれた古い構造が変容して、19世紀の「一つの医療職」に変容していく過程を、最も低い位置にいた薬種商に注目して論じている。著者はイギリスの18世紀研究の実力者で、日本でも名を知られている。気鋭の研究者の伊東剛君の指導教官だった。特にこの論文は、学生や若手研究者が書くような限定した範囲の問題についての鋭利なモノグラフではなく、そこから出発して実力者が書く広さと深さを兼ね備えた論文のお手本の一つだと思う。

18世紀の医学・医療は、種痘関連以外にはめざましい発展は少ないとされるが、それは現在の科学的医学の視点で見た場合の話であって、この時期には医療の上昇と拡大と変容があった。上昇のポイントは三つある。薬種商は、かつては内科医が処方した薬を売ることだけが許されて、それ以外の仕事(特に自ら処方すること)は処罰された。『ロミオとジュリエット』の貧しい薬種商は一つの典型像であった。しかし、1704年のいわゆるローズの判例で、医療を行うことが実質許されるようになった。この制度上の動きに対応して、まず第一に、需要に対応したことである。17-18世紀にかけて、かつての大学出の内科医が持っていたような人文学的な学識と教養の要素が濃厚な医療にかわって、より経験主義的な医療が拡大した。かつての個人の体質や生活に深く立ち入って養生の指導を与える、テイラーメイドで高価・濃密な医療ではなく、効果があるとされる医療を比較的安価に提供する医療が構造的に可能になった。(ハル・クックのレジメンとメディシンの議論と重なる)
 薬種商たちはプライヴェートな医療の市場に進出したにとどまらず、パブリックな存在感を持つようになった。これが第二のポイントである。都市のプライドの核であった慈善やヴォランタリーの病院の薬剤師職についただけでなく、市長や市会議員などにもなっていた。彼らは、civic worthies になっていた。たしかに、この時期は誰でも薬を売ることができる薬種商になれたし、法的な原理をみれば言ってみれば無法地帯であった。しかし、多くの薬種商は人々の尊敬を得る公職についており、このことが医療職の上昇につながった。
 三番目のポイントは、知識を共有し、最新の知識を広めあうメカニズムであった。Quack と呼ばれた集団は、家伝の秘薬や自分が発明した秘薬を営業の切り札としていた。それと対照的に、薬種商たちは知識を共有することを志向した。書物が編まれ、論文が書かれ、薬草園が訪問された。最新の知識は積極的に広められた。この知識の共有のエトスが、秘伝薬のquack たちと異なった専門職の性格を与えた。