西洋解剖学の中国への導入

Asen, Daniel, “’Manchu Anatomy’: Anatomical Knowledge and the Jesuits in Seventeenth- and Eighteenth-Century China”, Social History of Medicine, 22, no.1, 2009: 23-44.
17世紀末から18世紀にかけて、当時は清朝であった中国に、西洋の解剖学がもたらされた。イエズス会士たちが康熙帝 (KangxiEmperor)の求めに応じて満州語で記述して解剖図のイラストを描いた著作である。『格体全録』と呼ばれ、本来は出版されるはずであったが、結局合計で4部だけが写本されたにとどまり、その写本も宮廷の中に閉じ込められて、外部に与えたインパクトはごく小さかった。日本との対比でいえば、50年後に日本に導入された西洋解剖学である『解体新書』が、市井の医師たちによって翻訳出版されて大ベストセラーになったことが重要だと私は思っている。

この論文は、そういう素人くさい話ではなく、西洋医学の拡散と中国医学という他の優れた医学体系との出会いを分析した優れた議論である。最大のポイントは、17世紀から18世紀のヨーロッパと中国の出会いにおいて、ヨーロッパが優れている(数少ない)展として解剖学が上げられたことである。18世紀のヨーロッパは中国に対して総じて敬意をもっており、その医学に対しても敬意を払っていたが、その中で「解剖学についてはだいぶ水があいている」という深い自信を示していたことである。「中国で医学が軽視されているのは全くあたっていない。古代から多数の著者が医学を扱ってきた。しかし、彼らは自然哲学に習熟しておらず、解剖学を全く知らないので、人体の用法を知らず、病気の原因もわからない。だから、中国の医学はヨーロッパの医学のように進歩しないのだ」と書かれている。(1735) 中国医学の clinical な側面の強みを認めながら、 objective knowledge としての側面が弱いといい、解剖学はその中枢であり象徴であった。

私が17世紀・18世紀のヨーロッパの医学書を読んでいたのはだいぶ前のことだが、たしかに、解剖学と生理学は、ヨーロッパの医師たちの誇りであった。その当否はともかく、たしかに解剖学と生理学、そしてそのもとになる自然哲学が、徳川時代から蘭学を学んだ日本の医者たちにとって、大きな魅力でありまた異質な障害であったことはたしかである。