高橋お伝とハンセン病

高橋お伝とハンセン病 邦枝完二『お伝地獄』上・下(東京:講談社, 1996) 大衆作家の邦枝完二は、1934年から35年にかけて『読売新聞』夕刊に『お伝地獄』を連載した。その作品についてメモ。 高橋お伝は1850年に生まれ、1879年に斬首刑とされた。その犯罪と生涯は大きな注目を集め、1879年には河竹黙阿弥仮名垣魯文という人気劇作家がその人生を舞台化した。その後も1925年、26年、29年に映画に取り上げられている。 他の作品に触れていないので比較して述べることはできないが、邦枝の作品は、夫の浪之助のハンセン病の治療に付き添うお伝の姿が強調されている。物語の中では、浪之助とお伝は、もともと上州下牧村に住んでいたが、ハンセン病の治療のために名医を求めて東京と横浜に転居する。東京では神田小川町の後藤昌文に診療され、横浜ではヘボンの治療を受けることになっている。長期にわたる治療の中で、浪之助とお伝の関係が蝕まれていく。症状の進行、お伝に嫌われるのではという焦り、お伝が他の男と会っているのではないかという嫉妬のために、浪之助はお伝に対して心を閉ざし、あるいは暴行する。一方で、お伝としても、浪之助の看病と介護にその人生を費やすのはあまりに惜しいと感じるようになっていた。惚れた男との豪奢な生活はあまりに楽しかった。ハンセン病を家庭で治療する中で、患者の側の心理的な苦しみであり、家族の側の「負担」の意識である。その葛藤の中で浪之助はお伝に心中をせまり、お伝が拒んでもみあううちに、匕首で自らの胸を誤って突いて死んでしまう、という物語になっている。 邦枝の作品の連載開始は1934年であるから、まさにハンセン病患者の隔離収容が進んでいた時期であり、ハンセン病が話題になっていた時期でもあった。明治初期の「毒婦」が復活するには格好の機会であった。