モーパッサンの精神病短編二編

モーパッサン「オルラ」『モーパッサン短編集 III』青柳瑞穂訳、152-194. モーパッサンの「オルラ」は、セーヌ川沿いの街ルーアンに住む男が、精神が変調して最後には妄想に呑み込まれるようにして精神が荒廃していくありさまを描いた短編です。最初は妙な感じを抱くところから始まり、次は不眠、そして自分は夢遊病者ではないのかという不安に高まり、最後には、「オルラ」なる無形で透明の存在が彼自身の形をとって自分を支配しているという妄想を持つにいたる。「オルラ」を滅ぼすために自分の家に放火して逃げ出すが、それでもオルラは滅びないと悟って自殺が示唆されて終わっている。 このストーリーは、もちろんモーパッサン自身が神経梅毒による精神の異常をきたしていたという個人的・臨床的な状況を反映しているが、それと同時に、当時の精神医学で活発に議論され、社会的な関心も引いていた主題も織り込まれている。メスメルは発見者として何度も言及されている。中世の迷信や妖怪についての記述は、シャルコーとその弟子たちが、中世の悪魔憑きはヒステリーであるという主題の研究と共鳴するし、中世の舞踏狂のような精神疾患の流行がサンパウロに現れ、自分はこの精神病に感染したのだという思い込みは、ドストエフスキーの『罪と罰』の末尾にも現れる主題であり、コレラをはじめとする感染症と精神病の流行がなぞらえれて捉えられたことを示唆している。 モーパッサン「まぼろしの男」(Lui) 古垣鉄郎訳 『変態心理』vol.6, no.1, 1920:90-99. 翻訳は古垣鉄郎(ふるかき・てつろう)であり、のちに外交官、朝詩新聞社論説委員、NHK会長になる人物である。一人で暮らしている若い男が、孤独の憂愁がつのって、ある夜に帰宅すると、自室の肘掛け椅子にある男が座っているように見える。この幻覚はいつまでも続いて拭い去ることができない。これが幻覚であることが分かっていても、その存在は得体が知れないが言い知れない恐怖を呼び起こす。