精神病院と「時」の問題

溝渕園子「消された〈時〉--チェーホフ『六号室』の二つの日本語訳をめぐって」敍説 3 (7), 5-12, 2011. チェーホフ「六号室」は1892年に発表された中編である。チェーホフが1890年に流刑地の実態調査のためにサハリンに1年ほど滞在したあとに書かれ、田舎町にある慈善病院で働く医師ラーギンと、そこに併設された精神病患者のための「6号室」と呼ばれた病棟の患者の物語になっている。田舎の生活に体躯していたラーギンが、患者たちの中で知性もあって魅力的な内容の話をするグローモフという青年貴族と話をするうちに次第に惹かれていき、人々はラーギン自身が精神病にかかったと思ってラーギンを病棟に閉じ込めるという話である。狂人とそうでないものの境界の曖昧性と逆転を語り、また、6号室が持つ空間の意味性をロシア社会全体との関連で読解する解釈も可能である。この論文は、明治末期に現れた「6号室」の二つの翻訳を問題にして、そのいずれも、原作では非常に重要な「時」の重要性に関する部分を適切に訳出していないことに着目している。原作では<罪もない人からいっさいを取り上げて懲役刑にするのに裁判官に必要なのは『時』だけである>という重要な部分があるのに、それが翻訳には現れていない。行政上の処理にかかる時間、精神病院の中の時間、これらがある形式と結びつくことで、裁判であれ精神医学であれ「権力」が作動するようになる。しかし、この「時間性」は、どちらの翻訳にも表現されていない。どちらの翻訳も、空間的な閉鎖性や境界性については明示しているにもかかわらず、である。 レーニンは「6号室」を読んで、「背筋がこおる思いがして、部屋にいられず、立ち上がると部屋を飛び出した。まるで自分が6号室に閉じ込められたような気がした」 小川未明が「悶死」を明治42年ごろに書いた時に、これはチェーホフ「6号室」を思わせると当時の文芸批評の中で言われている。