江戸時代の走り踊る狂人―『嬉遊笑覧』より

江戸時代後期の随筆・類書である『嬉遊笑覧』の巻十一に「乞丐」と題された部分があり、非人、「聖」を名乗った乞食、ハンセン病をわずらった乞食などが説明されているが、その中に気違い・狂人に深く関連する記述が含まれているのでメモした。喜多村筠庭『嬉遊笑覧』長谷川強 [ほか校訂、全五巻(東京:岩波書店, 2002-2009

 

「けいあん(慶安)」「ほうさい(泡斎)」「せんしょう」「べらぼう」などが狂気と関係がある。『可笑記』なる書物によれば、「けいあん」「ほうさい」という名の狂人たちが江戸の町々や小路を走り回ったことが、多くの人々に見物されて、気違いたちは図に乗ったのかいよいよ気が乱れて、「つらくせ、手くせ、足ずり」をしたという。これは、「狂人走れば不狂人も走る」という禅話を思い起こさせたという。これが、お調子者の「慶安」なる名前の医者の話と混同されて、「けいあん」という語が愚か・軽薄の意味になったのだろうという説が記されている。「べらぼう」は、頭のおかしなものを見世物にして「便乱坊」と名付けて見世物として大当たりをしたという話が紹介されている。大阪道頓堀では頭というより身体の異形の見世物で、頭が鋭く尖り目は真丸に赤く頤は猿のような障碍者を見世物にして話題となり、京と江戸でも公演された。そこから愚かなものを罵っていう意味になったとのこと。(岩波文庫、五巻 5359

 

 

なお、「ほうさい」については、巻之五に、「はうさい念仏」として踊り狂う念仏を人々が見物して喝采し勧進したことが記されている。いくつかの話が紹介され、常陸のある寺の僧が、寺が損なわれたので弟子とともに江戸に行き、鐘や太鼓とともに踊り狂って勧進を集めて寺を再建した話、踊りは一様に揃えられたコレオグラフィーではなく、左に飛ぶもの、右に跳ねるもの、頭を項垂れるものに尻を振るものと、各々がばらばらの動きをしていたために「気違い踊り」ということになったという話、そして泡斎という狂人の法師がいて町小路を走り、童たちが「気違いよ泡斎よ」と囃した話などが関連する。(岩波文庫、三巻 63-66

 

重要なポイントは、狂人や狂人のように見える人々が置かれた位置であろう。街を走り回り、人々に見物されてはやし立てられる狂人は、乞食、ハンセン病患者、非人といった低級な職業につく周縁的な存在と近いものとして考えられていたからこそ、同じ「乞丐」の部分に置かれたのだろう。逆に考えると、精神病患者がそのような周縁性に滑り落ちるのを防ぐ仕掛けが檻入(かんにゅう)と呼ばれた、いわゆる座敷牢に入れる処置であったのだろう。これが明治以降の私宅監置にも引き継がれ、場合によっては精神病院への入院にもそういう要素があったのだろうか。精神病患者の拘束と閉じ込めには、自他危害の防止という現実上の関心の他に、近世の身分制社会を軸とした周縁性への接近を防止する意味があったと考えられないだろうか。

 

もう一つのポイントは、精神疾患が身体の運動とありさまと強く結びついていたことであろう。もちろん身体と運動への注目は精神の不調への注目とも並行することであるが、何が大きなダメージを患者の周囲の人々に与えたか、家族は何を深刻に心配したかということは考えるべきである。現実問題として、座敷牢に入った患者もいれば入らなかった患者もいたのであるから、前者においては何が大きな問題であったのかの参考になるかもしれない。

 

『嬉遊笑覧』は、江戸時代後期に著わされた随筆・類書。著者は喜多村信節(〓庭)。本文十二巻、或問附録一巻。巻頭に文政十三年(一八三〇)十月付の漢文自序、および和文の自序があるから、このころの成立とみられる。著者が多年にわたり博覧した和漢の書籍のなかから、主として生活風俗に関する事項を抄録し、これを後述のごとき項目に編集して考証を加え、自説をも付記してある。項目は、巻一、居処・容儀、巻二、服飾・器用、巻三、書画・詩歌、巻四、武事・雑伎、巻五、宴会・歌舞、巻六、音曲・翫弄、巻七、行遊・祭祀・仏会、巻八、慶賀・忌諱・方術、巻九、娼妓・言語、巻十、飲食・火燭、巻十一、商賈・乞士、巻十二、禽虫・漁猟・草木、ほかに附録となっている。この部類のうちにたてられている項目は三千数百項となろう。典拠とした書籍は和漢古今にわたり数百部にのぼるが、概して近世のものが多く、また三都を中心とする都市風俗を主として、地方風俗に関することは少ない。しかし、江戸時代の生活風俗を知るうえではきわめて有用な書物である。(『国史大辞典』)