科学史の未来と史料―昭和17年のヴィジョン

医学史研究の過去・現在・未来という内容の文章を書くことになっており、欧米に関することだけでなく、日本の医学史研究がこれまでどのようなヒストリオグラフィに関する洞察を行ったのかを少し丁寧に調べている。川上武などが一つの軸になるだろうか、予想していなかった議論に、緒方富雄が科学史研究の史料について論じた文章があったのでメモ。文献は、緒方富雄「科学史研究の機構について―我が国における困難とその克服―」緒方富雄『蘭学のころ』(大阪:弘文社、1944), 577-593.

 

この随筆風の論考は『科学史研究』の第二号に出版された。当時の日本の科学史研究の現状とそれを克服する手段を論じている。昭和19年に刊行された緒方の論文集である『蘭学のころ』(1944)にも収録されている。いまから70年ほど前に、日本の科学史研究の未来がどのように切り開かれるべきだと考えられていたかを知ることができる素材である。

 

日本の科学史研究は欧米に較べて遅れていたが、やっと出発点に立ったという感慨と決意表明で論考が始められる。<日本は欧米に較べて科学研究において長いこと立ち遅れていたが、科学史研究においてはさらに立ち遅れてきた。しかし、本格的なものがようやくはじまり、いまこそ動くべきものが動きだした。大東亜の盟主である日本はすべての領域において欧米に追いすがり、これを抜かなければならない。科学史についても例外ではない。>>という内容のまとめが冒頭にあり、「なんとしても、わたくしたちはがんばらねばなりません」と述べられている。ここでいわれている「本格的なものがはじまった」というのは、おそらく論文の刊行の前年(昭和16年)に科学史学会が創設されたことをさしているのだろう。その科学史学会が出来た現在、その研究の上の機構を考えるべきであると緒方はいう。

 

その機構の論考は、基本的に、史料の所蔵と整理と利用の問題につきている。学会は研究発表の場であるだけでなく、史料の整理に積極的にかかわらなければならないという。史料が科学史の基礎であるのは、実験が科学の基礎であるのと変わらない。しかし、これまでの日本の科学史研究では、その史料が個人によって所有されてきたという事情があり、それは史料へのアクセスが著しく限定されるだけでなく、さまざまな構造的な弊害を科学史研究に及ぼしている。史料の所蔵者は科学者の遺族や子孫であるかもしれないし、個人の史料蒐集家であるかもしれない。特に史料蒐集者が科学史研究を行うという構図が強く、日本の科学史研究者は、そのまま史料蒐集者であるという構図が作られた。そのため、史料を収集する特性と資力を持っているものだけが科学史研究者になれるという制限がうまれ、自分が所蔵している史料についてだけ語るという断片化がうまれ、個人が所蔵しているため、いったん集められた史料が分売されて断片化するという弊害が生まれている。

 

そのため、科学史学会は史料の所在を把握し目録化しなければならない。科学史図書館を設立し、多くの史料やその複製を集めなければならない。あるいは、重要な史料を活字で再現して入手しやすくするべきである。このすべてにはお金がかかる。それを認めたうえで、緒方は次にように結んでいる。

 

「結局、お金です。心がまえはもうできたのですから・・・

アメリカが科学の立ちおくれを取り戻したのは結局お金でした。この道の立ちおくればかりは、それ以外の方法ではどうにもなりますまい。お金を持たずに、日本の科学史の研究のさかんになることをのぞんでいるとすれば、それこそ空論でしょう。

 日本の過去においても、多くの場合、お金をつかった個人がすぐれた科学史研究をものしたのです。わたくしは、個人の努力を決して否定するものではありませんが、たちおくれた日本の科学史研究の、これからのゆき方としては、個人をこえた、集団の力をも十分にはっきしてゆかなければならないということを言いたいのです。」