悪魔憑きと20世紀の精神医学

ワラスロフ・イヴァシュキェヴィッチ『尼僧ヨアンナ』関口時正訳(東京:岩波文庫、1997)を読み直して、20世紀の精神疾患をめぐる文化の構造を考える。

 

『尼僧ヨアンナ』は、20世紀ポーランドの作家のイヴァシュキェヴィッチが1943年に執筆し、46年に出版した中編小説である。17世紀フランスのルーダンで起きた悪魔憑き事件を、時代はそのままで舞台をポーランドに移す変更を加えて、語り直したものである。いちいち確かめたわけではないが、歴史上の事件にある程度忠実に取材して書かれた創作で、作品中の「ルーディン」は実際の事件の「ルーダン」に、主人公である神父で祓魔にあたるイエズス会士のユゼフ・スーリンはジャン・ジョゼフ・スュランに、尼僧長のヨアンナはジャンヌ・デ・ザンジュにそれぞれ対応する。

 

「解説」でも触れられているが、20世紀の精神医学における患者と治療者の関係が小説の主題の背景に存在することは間違いない。精神医学においては、悪魔憑きをヒステリーなどの精神疾患の患者であると訴求診断することは19世紀以降には一般的なことであった。シャルコーにもフロイトにもそのような主題の著作がある。これらの著作では、悪魔憑きは人間精神がある構造によって病んだものであると捉えられて、その振る舞いや言葉が、その個人の心があるメカニズムによって偏移したものであることが示された。異常が単なる異常として位置づけられるのではなく、異常を通じて、正常な心と周囲の状況に着目する仕掛けの中に組み込まれたと言い換えてもいい。一方で、これは精神分析の仕掛けに特徴的なことだろうと想像するが、その悪魔憑きに接して祓魔を行う聖職者も、転移や逆転移などのメカニズムを通じて、悪魔憑きの心と密接に相関して「治療」を行うと捉える方向が形成された。

 

イヴァシュキェヴィッチの作品は、まさにこの精神医学・精神分析の方向性を作品化したものである。ヨアンナの悪魔憑きは、彼女自身が持っていた主人公スーリンの祓魔は、単に神の力や十字架や祈りや信仰の力によって悪魔に敵対する行為ではなく、悪魔憑きであるヨアンナの心と相関し、場合によってはヨアンナの心と体に宿った悪魔たちを自らに引き受けて「治療」しようとする試みである。他の神父による「服従せよ!服従せよ!」と悪魔に向かって絶叫し続ける祓魔と、スーリンが行うヨアンナの個人の人格に立ち入っての

祓魔の違いは大きく、敢えて言えば、そこに17世紀の祓魔と20世紀の精神医学の違いを見出すこともできるかもしれない。この「治療」は最終的には「成功」して、スーリンはヨアンナに憑いていた悪魔を自らに導きいれて自分が悪魔憑きになり、周囲の人物を斧で斬殺する。この過程も、スーリンの個人の精神世界と関連して捉えられており、読者はそこに悪魔の姿を見るのではなく、ある個人の人生と成長と性格と精神世界の構造を見出し、多くの場合、それに共感をおぼえる構造になっている。

 

20世紀の精神医学の視点で、近世の悪魔憑きを再解釈し再び語り直すことを通じて、この作品は悪魔憑きと祓魔士の双方を、<われわれのような>登場人物として語り直した。スーリンがユダヤ教のラビに言われた「わたしはあなた、あなたはわたしなのだ」というセリフを心の中で繰り返しては悪魔に憑かれていったという設定は、このメカニズムを象徴したものであると考えることができる。

 

画像は17世紀の画家で悪魔の妄想を持ったクリストファー・ハイツマン Christopher Haizmanによるもの。Ida Macalpine and Richard Hunter, Schizophrenia 1677 (William Dawson: London, 1956) で読むことができる。

 

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