ベトナム戦争のPTSD概念と、ホロコースト・広島原爆の「生存者症候群」との関係

Shephard, Ben, A War of Nerves: Soldiers and Psychiatrists 1914-1994 (London: Pimlico, 2000)

イギリスとアメリカにおける<PTSD>の通史を論じた書物。鉄道神経症から第一次大戦・第二次大戦を経て、ベトナム戦争と湾岸戦争の兵士のPTSDまで、PTSDとその過去の類似物の通史を論じた書物。一般向けに分かりやすく書かれていると同時に、学術的な研究の裏付けを持った記述になっている。また、特に現代・同時代のPTSDになると、必然的に政治的・社会的な要素が強い主題であるが、この著作は的確に政治的な歴史書であるという印象を持つ。そもそも、ベトナム戦争や湾岸戦争の経験が心的外傷となってPTSDになった患者については、その患者をどのように解釈するべきか、精神科医はどのように振る舞うべきかという問題は、必然的にそれらの戦争への態度に大きく影響される発言になるのだから、その歴史書も、そのような政治性を深く織り込みながら適切な距離を取る必要がある。その距離を取る感覚が優れている著作であるという印象を持つ。

 

第一次世界大戦における戦争神経症の大流行と、戦争の後遺症としての神経症患者への年金問題は、イギリスとアメリカが第二次世界大戦における戦争神経症の予防と対策を考える基盤となった。イギリスもアメリカも1938年近辺に戦争神経症を念頭においた対策の議論を始めている。イギリスでは、1938年の段階でいまだ40,000人が戦争神経症で年金を受け取っていた(本書は触れていないが、日本陸軍もほぼ同時期である)アメリカの計算によると、戦争神経症患者一人につき3万ドルかかるのである。この戦争神経症をどう減らすかということは重要な課題であった。

 

この脈絡においては、心理的・心因的・気質的な議論が主導権を握った。戦争神経症はもともおは爆撃の爆風などの物理的な衝撃によるものであると主張したかつての主流派の意見は顧みられず、気質的・心理的な理由で戦争に向かないものが戦争に参加した結果、戦争神経症になったと考えられた。イギリスもアメリカも、それぞれ異なった形ではあったが、面接と心理的な検査によって戦争に向かない心理的な特徴・気質・人格を持つ兵の候補を取り除く作業を行った。特にアメリカは「疑いがある場合は兵として採用しない」という方針がとられ、白人兵でいうと、候補者の1/4が心理テストを通じて取り除かれた。彼らは”4F” (心理的な理由で選抜されず)と呼ばれることとなる。そのときに色々な質問をしてその答えから判断するわけだが、「戦争についてのあなたの考えを述べなさい」などの質問のほか、もっとも有名となった質問が、「あなたは女の子が好きですか? Do you like girls? 」という問いであった。日本を占領した米兵たちは、この心理テストというハードルを乗り越えて兵士への適性を堂々と示した男性たちであることは憶えておいたほうがいい。

 

 

ベトナム戦争が始まったときには、アメリカの精神医学は楽観的であった。しかし、ベトナム戦争は、ゲリラ戦であり非戦闘員の只中での戦闘であったことなどを含めて、アメリカと兵士にとって異質な戦争であった。1990年の調査によれば、戦後15年たった時点においても、従軍した315万人の兵士・将校の約15%にあたる48万人が戦争神経症の症状をもっていた。この戦争の戦争神経症(PTSD)をめぐる論争は、アメリカの精神医学の内部と社会的な位置に最も大きな影響を与えた。精神医学の社会的な役割を再定義し、「トラウマ」という現象を、現代社会の風景の中に位置づけて、戦争の経験以外のさまざまな現象を PTSDという概念の中にくくり込んだ。特にベトナム戦争PTSDがアメリカの精神医学と社会の中に位置づけられるときに重要であったのが、ホロコーストと原爆の心的な後遺症であった。ホロコースト生存者がもつ心理的な後遺症、広島で原爆を経験したものたちの心的な後遺症などが「サバイバー症候群」と呼ばれて解釈されていくなかで、ベトナム戦争PTSDが結び付けられた。かつては「戦争不適格者」の烙印であり、「まともに女を好きになれないマザーファッカー」のしるしですらあったPTSDが、政治的に正当化されるためのメカニズムであろう。1970年代が、過去の暴力を再解釈して、当時の政治と文化のランドスケープに「ホロコースト」「原子爆弾」などの要素を組み込んでいく過程において、ベトナム戦争PTSDも形成されたのである。

 

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