原作と映画化と即興性の話(酒席の話です)

昨年末に映画『ムード・インディゴ』を観た。ミシェル・ゴンドリーが監督しロマン・デュリスオドレイ・トトゥが主演した、小粋で愉快で悲しいラブ・ストーリーの映画である。若く美しい女性主人公が肺に睡蓮の花が咲く病気で死ぬというプロットが重要な役割を果たしており、念のために原作を読んでみた。映画の主人公の病気には肺結核のイメージが重ねられており、原作が執筆された1946年は、私の理解だと結核の治療薬であるストレプトマイシンは発見されていたが臨床に投入される直前で [ チェックする]、まだ結核との勝負がついていなかった時期である。原作は、フランスの作家でエンジニア・音楽演奏・音楽評論など多芸の人であるボリス・ヴィアンL'Écume des jours (1947)、『うたかたの日々』野崎歓訳、光文社古典新訳文庫(東京:光文社, 2011)として翻訳されている。原作でわかった結核の話も面白いのだけれども、ここでは、学問的ではない、お酒を飲んだときに友人たちとするような話をメモする。

 

正直に言うと、小説を読みながら、「映画とまったく同じだ」と思ってがっかりした。いろいろな箇所で「映画そのものじゃないか」という不満すら感じた。

 

 

もちろん、これは原作に対する無理無体な言いがかりである。原作から映画を作ったのだから、両者が似ているのは当たり前であり、原作が映画の二番煎じのように思えたのは、私が映画を先に見たことが主たる原因であることも承知している。しかし、それだけではなく、原作の性格も原因の一つであるように思う。原作が言語で書かれてていながら、その狙いが非常に視覚的であり、シュールレアリストの絵画のような効果を作り出していることが関係している。原作が言語で描いている一つ一つの情景、たとえば胸の中に睡蓮の花が咲いているだとか、水道からウナギが出てくるだとか、鳩がスケートリンクの監督をしているなどの情景が、映像化された場面を観ることで「一つのカタがついた」という気がしてしまうのである。いま上げたような情景が、事物と事物をズレた形で並べたものであり、シュールレアリスムでも、ヴィアンがフランスに紹介したジャズでもいいが、偶発的であり即興的であることも関係があるだろう。偶発的・即興的であるなら、一度経験すれば、<それで話が済んだ>と思うのかもしれない。

 

やっぱり話はまとまらないが、もともとお酒の席でする話だから、それでいい。