三島由紀夫『わが友ヒットラー』

ふと思いついて『わが友ヒットラー』を読んだ。だいぶ以前に読んで、たぶん二回目だと思う。もともとあまり演劇を観るほうではないが、死ぬ前に一度は観たいお芝居はたくさんあり、この作品はその一つである。1968年に上演。ラシーヌの『ブリタニキュス』を鑑として、「血で血を洗う政治劇を優雅なアレクサンドランで、というのが私の芝居の理想である」と語り、「能のような単純簡素な構造」を求めたという。

 

三島が登場人物に謳わせた「アリア」が幾つかあり、その中で私が最も好きだったのは、2幕でシュトラッサーがレームに語る長い台詞である。鳩にパン屑をあげながら、「鳩がパン屑をよろこんで喰べている。美しい日光。革命の朝というものはこんなものじゃない。どこにも血の匂いのしないこんな朝が来るとは思わなかった」で始まり、末尾近くで「レーム君、革命はもう終わったのです」と締めくくられるまさしくアリアのようなセリフである。その中の一節に、環境と神経を論じている箇所がある。「自然にも、人間にも、事物にも、しみとおる力、浸透する力がなくなって、水や空気のようにわれわれの肌の上を辷るだけになったのです。そしてわれわれの繊細な鋭いレエスのような神経組織は、いつのまにか、緩んだ、ほつれた、目の粗いものになった」という文章が使われている。

 

革命の頃は、自然・人間・事物が、我々の皮膚から体内に沁みとおっていた昔、そのときには神経は鋭く繊細に編まれていた。それがなくなったいま、神経が緩んできて粗雑になってきた、という記述である。この戦後の身体感覚を憶えておくといい。