「医学史の過去・現在・未来」(04a)

「医学史の過去・現在・未来」の草稿です。

 

1990年代からの日本における医学史研究は、人文・社会科学のそれぞれの分野・領域の多様な視点・問題関心・方法論を用いた研究が併存する形となった。このような多様化は、欧米における医学史研究の発展と類似しており、日本の医学史研究も西欧の医学史研究の進展が辿っているグローバルなトレンドに沿って進展していると考えてよい。これは、もちろん欧米と日本の医学史研究者の間の交流という事情もあるが、それだけでなく、20世紀後半の先進国の医療そのものが経験している変容と密接に結びついている。医学史研究が、医療とそれをめぐる状況の変化と不可分であるという事情は、日本でも欧米でも変わらない。

その変容の核には、医療における専門家支配のモデルが終焉し、医療を医者に任せておけば人々に善がもたらされるというかつてのモデルが批判され、それを改革する過程が進行している潮流がある。19世紀末から20世紀初頭・中葉にかけて、医学と医療が理論的・技術的に進歩しながら、福祉国家の進展にともなってその果実が広範な人々にもたらされていた時代においては、医学と医者の貢献を強調するヒストリオグラフィは時代に合致していた。既存の医学史のコアの主題は、重要な医者の人生と業績、理論や診断技術や治療法といった狭義に定義された医学における貢献であり、そのような狭義の医学・医療における進歩と貢献が福祉国家や制度を通じて大きな利益を与えている変化を人々が実感していたためであろう。しかし、国によってその時期に多少のばらつきはあるが、おおむね20世紀の中葉から後半以降には、医療技術の進歩は漸進的なものと感じられるようになり、福祉国家の拡張はストップして、人々が医療の進歩の恩恵を実感する要因は後退していった。それと同時に、20世紀の後半には、医学の貢献を強調する歴史記述では扱いきれない数多くの主題が社会の前面で意識されるようになった。戦争直後のナチスの医師たちの戦中の人体実験を裁いたニュルンベルクの裁判や、1970年代から社会意識に食い込むようになった日本における731部隊の中国人捕虜を用いた人体実験のような事例は、医療倫理の問題をクローズアップさせた。天然痘の撲滅が象徴するように、医学の勝利に終わるはずであった感染症との闘いは、1980年代からのHIV/AIDSの世界的な流行によって、人間の思い上がりをまざまざと見せつけられる結果となった。精神疾患においては、20世紀の中葉までに梅毒性の精神病が実質上消滅し、統合失調症がコントロールできるようになった前進を裏切るように、20世紀末からは、新型うつ病多重人格ADHDなどのように、新たな精神疾患がとめどもなく付け加えられて流行するように見えはじめた。なによりも重要なことは、かつてのように医師を先生と仰いでその権威に盲目的に従うのではなく、市民として、そして医療産業の消費者として医療と関係を持つという新たな行動の型が唱えられ、着実に受け入れられているからであろう。そのような状況における医学史研究は、歴史上の医者の貢献を讃える医学史とは異なった立ち位置を必要とする。

このような背景を持ちながら、多様な学問の領域から行われるようになった「新しい医学史」の特徴を説明することは非常に難しいが、敢えていえば、医学を広義に捉え、より広い文脈において考えるようになったことが大きな特徴である。新しい医学史は、医学と医療に多様な要素と構造を読み込むようになった。その中で重要なのは患者という要素であり、新しい医学史は、医者・医療者側と患者側の双方が作り上げる医療を軸にした営みを考えているといってよい。さらに、その営みの歴史を解釈するときに、それぞれの研究者の関心に応じて、行政・経済・環境・社会・文化・倫理などの構造の中に位置づけるようになったといえる。このような関心は、日本の医学史研究の領域においては、1) 日本史、2) 民俗学文化人類学3) 西洋史、4) 帝国主義史、5) 歴史人口学、6) 文学・文化論、7) 社会学・歴史社会学8) 医療の社会科学系の研究、9) 科学史・科学論、10) 既存の医学史(医史学)のようにまとめることができるだろう。

 

 1) 日本史の領域において特筆に値する主題は、ハンセン病の歴史と明治期の公衆衛生の歴史であろう。いずれの主題においても、欧米の医学史研究、特に産科学・婦人科学、精神医療、帝国主義医療などが辿った道筋を同じ道筋を進んでいるからである。当初の医学性善説が批判され、医療の受け手が被害者であったことが強調されて、「被害者史観」と呼ぶことができる立ち位置が導入されたのち、その視点を一つの要素として受け入れながら、より実質的なリサーチ、洗練された理論、多様な要因からなる構造への再定位という過程である。ハンセン病の歴史においては、藤野豊『日本ファシズムと医療』(1993)が研究史上にそびえたつ傑作であった。藤野は、戦前のハンセン病患者の隔離収容を批判して、それを人道主義ではなくファシズムの社会統治に結び付けて強烈なインパクトを与え、ハンセン病患者の隔離が存続していたことを社会問題として捉える傾向に大きな影響を与えた。しかし、藤野の著作から20年弱で研究は新たな段階に入り、廣川和花『近代日本のハンセン病問題と地域社会』(2011)は、多様な史料に基づいた患者の生活の再構成をめざし、ハンセン病問題の中に「地域」という主題を導入しながら、新たな倫理的・方法論的な課題を提唱した。同様に、明治期の公衆衛生においては、かつての西欧型のものを輸入した公衆衛生・感染症対策を文明の進歩として捉える見方に対して、1970年代の後半から大日方純夫らが注目した「コレラ騒動」は、かつての一揆ともつながる民衆暴動や抗議行動という日本史研究における重要な主題を公衆衛生の歴史に導入した。このような関心は、1990年代の末の尾崎耕司の業績に代表されるような形で、新しい問題系へと再定位されて、明治期の地方行政の改革や国際衛生とともにコレラの流行と公衆衛生の歴史の地平となった。ハンセン病と明治期の公衆衛生以外にも、日本史研究からは、古代・中世の研究者である新村拓は、1980年代の『古代医療官人制の研究』(1983)『日本医療社会史の研究』(1985)などの学術的な著作から出発して、看護・介護・老いの問題に関する一般向けの著作を世に問うている。江戸時代の医学は海原亮『近世医療の社会史』(2007)などの高い水準の研究を生んでおり、それらの成果は青木歳幸『江戸時代の医学』(2012)において具体性と総合性を兼ね備えた優れた仕方でまとめられた。(以下次号)