『戦争責任研究』「戦争と心の傷」

蟻塚亮二「沖縄戦のトラウマによるストレス症候群」『戦争責任研究』(81), 2-11, 2013.

北村毅「沖縄戦における精神障がい者のスパイ視と虐殺」『戦争責任研究』(81), 12-21, 2013.

中村江里「日本帝国陸軍と『戦争神経症』」『戦争責任研究』(81), 52-61, 2013.

藤野豊「熊本における『ハンセン病患者骨格標本』問題の検証」『戦争責任研究』(81), 12-21, 2013.

 

『戦争責任研究』が第81号で「戦争と心の傷」と題した特集を行っている。近現代日本史の研究者が医学史の主題を中心的に取り上げたのは、明治期のコレラハンセン病の歴史に続いて3回目である。医学史の研究者である私からみると、欧米の医学史家が第一次大戦・第二次大戦・ベトナム戦争などの戦争神経症の歴史研究をして深く洗練された数々の洞察を生み出してきたのだから、その分厚い研究の蓄積からもっと学ぶべきだと思うが、日本史の研究者たちには独自の関心と流儀があるのはいつものことであるし、彼らはもちろん重要な主張をしているから、医学史家としてはそれに耳を傾けていればよい。

 

北村論文は、沖縄の精神障碍者たちが地上戦の前にスパイと疑われて監置・拷問・虐待・公衆の面前の処刑などが行われた凄惨な事例を拾い集めてきた必読の文献。中村江里の論文は戦争神経症を隠蔽しようとするベクトルと、それに対応しようとするベクトルという二つの反対の方向の力が、軍と軍医の内部にも存在したと主張しているとまとめることができる。だから、1938年に国府台病院を作って体制を整えたあとも、皇軍にはそんな臆病者や卑怯者はいないというメッセージが国民には流されていた。櫻井図南雄を分析して「戦争神経症というアリーナ」と指摘したのはとても優れている。必読の論文である。

 

簡単なメモ。戦争神経症は病前の性格に深い関係があると考えられていた。しかし、その一方で、戦争神経症になるような性格の人間も身近に存在することは当たり前の常識の一部であり、そのために兵を選ぶという行政的・管理的なフィルターが存在している。このフィルターが機能しなかったときには、多数の戦争神経症患者が出るはずだという理論の枠組みがあった。国府台の責任者であり尊敬された軍医であった諏訪敬三郎が、戦後になって、なぜ戦争神経症も含めて精神疾患が数多く出たのかと自らに問うたときに、「(本来取るべきではなかった)兵を多くとりすぎた」と答えたのは、その枠組みと一致している。戦争神経症は選兵の行政が予防するべきであるという期待である。

 

以前も書いたが、1942年から45年にかけて、日本軍(陸軍)で、満州・中国・南方を合計して「精神病」が約23万人出たという表が掲載されている。この数字はいったい何を計算したものなのか、まだ見当がつかない。正直に書かせてもらうと、現在の日本の精神病院の病床がすべて一杯になるような数の「精神病」の患者が、兵士の中から3年間で出たというのか。それはさすがにないだろうと思う。だとしたら何を数えたのだろう。

 

 

藤野豊の論文は、熊本のハンセン病療養所と熊本医科大学が協力してハンセン病患者の骨格標本を作製していたことを発見したもの。重要な発見であり必読の議論である。しかし、その議論の口調は、学問に対して弊害のほうが多い。私も含めて誰もが藤野の著作を熱心に読み、多くを学び、高く評価しているからこそ、藤野説を批判的に乗り越えようとしていることが分かるといいのだけれども。