サドの人生における二回の長期監禁

澁澤龍彦『サド侯爵の生涯』はいまから半世紀ほど前に出版され、現在では中公文庫に入っている。名著の一冊であろう。もちろんフランスの研究者たちによる研究や、フランスの学者たちが発掘して刊行した資料や書簡などを使っているのだが、その水準は非常に高い。皮膚科医で性科学者のイヴァン・ブロッホが「オイゲン・デューレン」の筆名で書いた伝記や、英語の伝記で評価が高いハーヴァード大出版局の Neil Schaeffer の伝記なども持って時々目を通しているが、洞察の深さや透徹さなどの点においては、澁澤が優れている。

 

精神病院に在院することの意味を考えていて、インスピレーションを求めて読んだ。ご承知のように、サドは人生で二回の長期間の監禁がある。おおまかにいって、一回目は、サドが40才から50才の時期の10年にわたってヴァンセンヌとバスティーユという牢獄に閉じ込められていた時期であり、これは1789年のフランス革命と同時に終わってサドは解放される。二回目は65才ころから74才までの10年でわたり、シャラントンという精神病院に閉じ込められていた時期であり、サドの死によってこの監禁は終了する。

 

この二つの監禁は鮮明な対比におかれるべきである。一回目の監禁では、革命・反抗・リベルタンの精神が狂ったように奔流し、サドは政権・家族・監獄の舎監などに対する憎悪をたぎらせ、監獄からの解放と窮屈な規則の変更を迫り続ける。その中で、『ソドム120日』『ジュリエット』などの傑作の作品の原稿が描かれる。それまでまともな文学を書いたことがない人物が40才の監禁を機にして長大な作品を書き出して、しかもその監禁自体に激しい憎悪をたぎらせている状態である。それに対して、二回目の監禁では、サドは政治的な志向性を失って日和見主義者になり、文学的な創造力はあらかた失われ、精神病院の院長には好かれるような穏やかな人柄になっていた。かつての荒々しい憎悪と敵対ではなく、相対的に言えば、温和な老人らしさといえるものだった。澁澤は「精神病院の中の孤独と安泰は、それほど厭わしいものではなかった。自分に敵意を持つ世界を逃れて、すすんで牢獄の孤独の中に自分を放逐することを選んだのかもしれない」としるし、「若き日の彼を駆り立てた情欲の衝動も、すでに厚い脂肪の奥に入り込み、日常生活の中での平穏無事しか望まなくなった」と諦念を滲ませながら書いている。

 

二回の監禁の対比がサドの最新の伝記研究と解釈に照らしてどうなのかという問題はここでは問わない。シャラントンで患者を用いて演劇を上演していたのは、それほど凡庸なことだったのだろうかという疑問もここではどうでもいい。さらには、澁澤が唱えるこの二元論的で逆説的なモデル、すなわち旧体制下においては徹底的な反抗のリベルタンであったサドが、革命期には日和見主義者になって精神病院への収容を安穏として喜んでいたという考え方の意味も面白そうだけれども、それもここではいい。重要なポイントは、監禁を憎悪していた時代の緊張と創造性と、監禁をむしろ進んで望むような状態での安穏な日和見性と従属性の問題である。あるいは、監獄なり精神病院なりの秩序を受け入れること、規則通りに振る舞うこと、その規則への従属を満足とすることの問題でもある。精神病院の診療録の看護日誌の部分を読むと、秩序と従属性をどのように保つかという問題が看護の主たる関心であることがありありと分かる。いま、その秩序の保ち方を調べた論文を書いているが、一方の極には澁澤が描くサド侯爵の姿があることを忘れないように。

 

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