日本の断種法論争:1934年

1933年にナチス・ドイツの断種法が制定された。アメリカの多くの州における類似の法案の制定よりも遅かったが、ドイツの医学と医療政策・生殖政策に注目してきた日本の医学界にとっては大きな意味を持つ国際的な動きであった。以前から優生学を唱えて『民族衛生』の刊行の中心にいた東大教授の永井潜は、これをめぐる座談会を名古屋で開催して、その成果などを6点の論考と、それに対する自分のコメントという形で1934年の『民族衛生』に発表した。中国で発行されているドイツ系の新聞の記事、精神医学者の吉益、名古屋控訴院の立石は、弁護士の斎藤最、内藤八郎は医学博士でおそらく開業医、斎藤茂三郎は1937年にレナード・ダーウィン優生学とは何か』を翻訳している人物で、詳しいことはいまちょっと分からない。

 

優生学の政策の中で、現実的には最も尖鋭な政策である断種をめぐる議論であるから、議論は深い水準に及ぶと同時に、意外な発展を見せて興味深い部分もあった。やはり読まなければならないのは短いものだが立石の論考である。立石はさまざまな問題を提起して、鋭く根本的な科学批判を行う。(興味深いことに、医学批判というより科学批判の色合いが強い)科学批判としては、科学者たちは「不明である」というべきところを、「そんなことはない」と否定する傾向があるという。また、科学者たちは、現在の科学の水準ではまだ確定してはいないことを掲げて、法や政策が非科学者によってきめられている状況を批判する。立石は、我々のような非科学者には理解できないという洗練された皮肉の形をとって、科学者たちの詰めの甘さを批判する。

 

しかしながら、それよりも興味深いのは、立石の論考の末尾で展開される、日本の社会、特に農漁村には精神障碍者がいるのが似合うという主張である。それは「禅に似ている」とまで言う。引用すると、次のようになる。

 

白痴や莫迦・ふぬけ・たわけと禅とは似ているところがある。社会、ことに農村・山里漁港などから莫迦が消滅してしまっては余りに淋しい。平均した普通の者だけ、いわゆる常識家ばかりとなった時には何らの興趣がなくなりはせぬか(中略)

秋の日長の天気晴朗なる時、山里・農村・漁港において白痴・低能の少青年が

 

赤トンボ羽根をとったら蕃椒

蕃椒、羽根を付けたら赤トンボ

 

という歌を可愛らしい声で歌いながら如何にものどかそうにトンボを追うて行く情景、これが私ども非科学的生活者の頭にはきわめて順調であり、人生の何かしら言い知れぬ興趣がその間に湧き出て来るような気がしてならないのである。人間の社会を、豚の社会・羊の社会・鶏の社会―それは益々群集的に科学的に公式的にそして優生学的に飼われて行きつつ、自己の存在というよもを失いつつある生物の社会―と同じような社会を工作するような傾向は、よほど考えねばならぬことと思われる。

 

これはとても面白い見解である。田舎で赤とんぼを唐辛子と追っている精神障害の青少年が人生の順調であり興趣であるという。どう考えればいいのかは分からない。ただ、精神病患者・精神障碍者の入院なり隔離監禁なりがまだまだ進んでおらず、特に地方部においては江戸時代と大差ないような精神障碍者の風景が広がっているときに、これをある意味で美化する感情の機構がまだエリートにもあったということは確かだろう。

 

永井はこれに対し、「哲人立石さんの、人生に対する一編の詩歌である」とは認めるが、やはりそのような白痴低能者が一日も早くに、一人でも少なることが、人生にとってどれだけ大切な厳粛な問題でなければならぬかを、痛切に感じるという切り返しをする。

 

ネットで軽く調べたら、赤とんぼと唐辛子の歌は、もともとは芭蕉と其角の間の俳句の返答とのこと。私たちの世代にとっては「あのねのね」というグループが歌った「赤とんぼの歌」を想像するけれども。

 

 

鈴木善治編集『日本の優生学資料選集―その思想と運動の軌跡』全6巻(東京:クレス出版2010)、第6巻466-499 より

 

永井潜「断種法に対する反対の反対」『民族衛生』3巻(1934, 239-301.

「強健なる後裔の為の戦ひ(新しき獨逸断種法)」『民族衛生』3巻(1934, 302-304. [ 上海徳文日報 Deutsche Shanghai Zeitung より] 

吉益脩夫「スウェーデン新断種法草案の批判」『民族衛生』3巻(1934, 304-311.

立石謙輔「ナチス断種法に就いての感想」『民族衛生』3巻(1934, 311-314.

 斎藤最「強制断種の法律的考案」『民族衛生』3巻(1934,315-317.

内藤八郎「断種法に就いて」『民族衛生』3巻(1934, 317-318.

斎藤茂三郎「断種運動の歴史」『民族衛生』3巻(1934, 319-322.