種痘は大惨事に対する英雄的な行為だったか

吉村昭『雪の花』を読む。幕末の福井藩における天然痘に対する種痘政策の成功を描いた中編小説である。主人公は福井藩の町医者の笠原良策である。物語は、福井藩における良策の人道的な情熱と種痘導入の努力が中心となり、その周りに、種痘をはじめとするオランダ医学が導入される先進的な地域である京都の医者との交流が描かれている。2013年に刊行されたアン・ジャネッタ『種痘伝来』(木曽・廣川訳)が描く、種痘がオランダ医学から日本へ、そして日本の医学イノヴェーションの拠点から各地に広まっていったネットワークの中で活躍したある医師の物語である。

 

良策はもともと中国医学を学んでいたが、天然痘の災禍に対する種痘という方法があることを知る。京都の蘭方医の日野鼎哉(ひの・ていさい 17971850)のもとで蘭方を学び、中国から特別に痘苗を輸入して長崎で受け取り、それを用いて福井藩内に種痘を広めようとする。本来は非合法な痘苗の輸入が許可されたのは、福井藩の松平春嶽が動いたからである。長崎に向かう途中に京都に立ち寄ると、そこで教師の鼎哉がちょうど種痘の導入を試みており、その痘苗をリレーのように小児や若者に植え継ぎながら福井に持ち帰る。京都と福井の間に存在する山の峠を、冬の豪雪の中で瀕死になりながら突破する部分は、メロドラマ的な感動を読者に与えることが意図されている一つのクライマックスである。この難所を超えて、無事に福井に痘苗(より正確ににいうと、牛痘に罹患した患者)がもたらされ、良策は種痘を始めるが、藩の役人の敵意と人々の無理解と恐怖のために、なかなか広まらないが、良策は藩に提言し、最終的には種痘は福井藩とその近隣の藩にも広がっていくというハッピーエンドで締めくくられる。

 

私は種痘の専門家ではないが、吉村の小説なのだから、史実には合致しているのだろうし、細部の記述は歴史的な確かさを感じさせる。しかし、私が大きな疑問を持つのは、人道的な熱血漢の活躍がはめこまれている天然痘の流行のありさまと、それが生み出す意味づけである。吉村の記述は、幕末の日本における天然痘の流行の惨禍を過大に描き、それによって主人公の人道性をあまりに際立たせようとしているため、より重要なことが見落とされるように思われる。

 

物語の冒頭に天然痘の流行の惨禍が描かれている。流行の年には、京都では一年に9,000人の死者が出て、福井でも1,000人の死者が出た。一家は壊滅し、人々は死体に近づかず、大八車でこっそり捨てられるように運ばれるという。この状況は、本当に幕末の日本で天然痘に関して起きたことだろうか。京都で一年に9,000人の天然痘の死者が出た年が幕末にあるのかどうか、確かめていないが、その事実は私たち医学史の研究者が一般に持っている知識ではないし、この数字はにわかには信じがたい。江戸時代の日本では天然痘は常在化して、大都市では長くて数年に一度の流行となっていた。飛騨の比較的奥地の田舎においても、5年に一度くらいの間隔で流行があった。そのため、それまで天然痘に罹患していない子供だけが罹る病気になり、飛騨の村の数値では天然痘の死者の90%以上が10歳以下の子供であった。大人は天然痘に一度罹患したため、二回目以降の流行では罹患することが極めて例外的な事態であった。その状況において、京都で一回の流行で9,000人(人口の2%程度くらい)が一気に死んだということは、非常に想像しにくいし、大人は基本的に罹患しない状況で、「一家が壊滅した」ということも、首をかしげる記述である。

 

吉村が描く天然痘の状況は、幕末の日本でいえば二回のコレラの流行、中世から初期近代のヨーロッパでいえばペストの流行にあてはまる。これらの疫病においては、きわめて多数の死者が出た。人口の2%が死ぬことは、安政の江戸のコレラではおそらく5%ほどの死者が出て街は恐慌に陥ったから、幕末のコレラでは十分にあり得たことであるし、ペストでいえば、一回の流行で街の人口の30%程度の死者が出ることは当たり前ですらあった。このような状況では、疫病の惨禍が与える衝撃によって、医者が人道的で熱血漢的な振る舞いをすることは納得できる。

 

しかし、幕末の天然痘は、より日常化されていた疾患であった。おそらく江戸時代の初期から、人々は天然痘による損失とともに生きることを数世紀間続けていた。そこに導入された天然痘は、目も当てられないような惨禍を防ぐことよりも、人々の日常性を変えようとする意図に基づいていた。もちろん、そのことに人道的な情熱を持ってもいい。しかし、それは異常な大量死の状況に対処する英雄的な行為であったようには私は考えていない。医学と権力が人々の生活を変えようとするとはどのようなことだったのかという問いの方が、歴史的に的確な問いであろう。

 

ブログであるからという言い訳もあるが、私は十分な下調べをしないでこの記事を書いた。幕末の京都で本当に9,000人の死者が出る天然痘の流行があり、そこで人々が恐慌状態に陥った史実を知っている方は、ぜひ教えていただきたい。これは嫌味を込めたコメントではなく、その記述が事実なら、私は知らなければならないからである。

 

なお、以上のような私の江戸時代の天然痘の理解は2011年に論文化したので、以下のサイトを参照していただきたい。

 

 

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3143877/