差別と隔離と自己解放の物語としての『アナと雪の女王』

飛行機の映画で『アナと雪の女王』を観た。ディスニーのアニメらしい良い映画で普通に楽しんだ。原作はアンデルセンの『雪の女王』で、そこからかなりの改変があるが、雪の女王をどう描くかという違いが特に面白く、また重要である。アンデルセンの作品では、冷たい心を持った雪の女王がいて、彼女が厳しい冬を起こして、本当は優しい男の子を捕まえて心を凍らせて冷たい心の持ち主にしてしまう。一方『アナと雪の女王』では、二人姉妹のお姫様のうちのお姉さんのエルサが、彼女に特有の能力として触れるものをすべて凍らせる能力を持っていたが、そのような反社会的な能力が自分にあることを周囲の人はもちろん家族に対しても隠し、人目を避けてお城に閉じこもって生活してきた。しかし、そのような特有の魔力を持っていることが戴冠式の日に明らかになり、人々は彼女を恐れ忌避するようになり、彼女は一人で北の山に向かう。この逃避は、差別する人々から逃げ出すことであると同時に、そこにいけば、自分自身の能力を思う存分使ってよく、もう誰の目も気にすることなく、氷の橋だろうが宮殿だろうが雪の怪物だろうが、なんだって作り出すことができる解放でもあった。だから、彼女は、北の山に逃げ出しながら、「もうこれで人に自分を隠さなくていい。ここなら私は自分自身になれるの♪」という内容の、明るさをもつ非常に印象深いソロを歌う。差別と隔離が解放として選ばれるという構図である。

 

ハンセン病の隔離収容の研究者、精神病院への収容の研究者は、ディズニーの映画から研究のヒントを得るとは思っていないが、この作品は絶対に観ておいたほうがいい。隔離収容と自己実現の関係が複雑であることは、このような作品においてすでに鮮明に描かれている常識になっていることも知っておいた方がいい。