読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

谷崎潤一郎の歯痛より・神経衰弱患者の幻想

谷崎潤一郎「病蓐の幻想」からメモ。大正5年(1916)の11月の『中央公論』に発表した短編で、全集の第4巻に入っている。とても面白い作品で、精神医学史の研究者は読んでおくべきである。また、後半は地震を不安に思う心理について、とても面白い記述がある。メモするポイントは4点。まず、神経衰弱の患者の不安・幻想と、うなされるような悪夢という素材で一編の作品としていること。「病蓐の幻想」というタイトルの通り、病で臥せっている状態の患者が持つ不安と妄想という主題である。しかも、それが患者自身の一人称の視点に立ち、患者自身の心理を語っている。理不尽な不安が増大し、患者に見える異様な世界が現れ、それがどんどん異様さを増していき、はっと目覚めると悪夢であったことが分かるという仕組みである。

 第二に、神経衰弱の患者が病んでいる歯痛を音や音楽に転換するという内容である。主人公で語り手は「歯根膜炎」を病んでいることになっている。原文では「歯根」の「根」の字は、「歯」を漢字の偏としている。調べてみたら、いわゆる「むし歯」は正式には「歯髄炎」と呼ばれる病気で、これが歯を超えて「歯根膜」に達した場合になる病気らしい。その歯根膜炎にかかった歯の列がピアノの鍵盤にように感じられ、痛みがバイブレーションを起こして音となる。「痛みが極度に達すると、むしろ音響に近くなるのだ。あたかも空中で音波の生ずるように、歯ぐきの知覚神経が一種のバイブレーションを起こすのだ」と主人公は考える。その音は、Quă-ăn! Quă-ă-ăăn! と表現されている。また、Biri! biri-ri-ri! という感覚もある。そこに音階がつくと、歯の痛みがメロディーとなるかのようである。主人公は神経を集中してある特定の歯を痛ませることができる。調子に乗って、子供がピアノをいたずらするように、神経の手をあっちこっとに歯列の上に駆使しながら、色々の方面を痛ませることができた。すると、「汽笛一声」でも「春爛漫」でも「さのさ節」でも喇叭節でも、好きな曲を演奏することができるような気分がしてくるという。春爛漫は一高の寮歌、さのさ節、喇叭節は、明治期に流行した唄だと思うが、詳しくは調べていない。

 第三に、この痛みと音の結びつきから、痛みを視覚と色彩を結びつける方向、そして最後には痛みが文字と言葉に発展していくこと。痛みと音・音階を結びつける妄念が一段落したあと、また妄念が「蛆虫のように脳髄の中でうようよと」うごめきだして、次は視覚と色彩に発展する。作品の中では、「紅蜀葵」という花が庭に落ちるのを見て、歯の痛みはそれぞれ雑多な色彩を持っているという方向に妄念が発展する。そこで主人公の心象の中には外国文学の作品が入ってくるが、まず登場するのはボードレールの「人工天国」で、その「ハシイシュを飲んだ時のハリュシネエション」の記述の中の「音響は色彩を発し、色彩は音楽となる」という部分を思い出す。次はランボーの「母音」の、A noir, E blanc, I rouge, U vert, O bleu, voyalles という句が浮かんだとある。母音に色があるとしたら、自分の痛みにも音楽があり、これにアルファベットを配すれば、それは文字で表記される言葉になる。「A, B, C, D, E, F, G, ・・・」という。

 ボードレールの「人工天国」でのハシシ論は非常に重要なテキストである。議論は夢とハシシの効果を対比させる形になっている。まず夢に二種類あり、片方は通常の生活や日常の欲望・関心・不安がそのまま出て来るものである。もう一つは、不条理なもの、思いもかけないもの、睡眠者とはつながりがないかのように見えるものであり、ボードレールはこれを象形文字的と呼び、生の超自然的な側面を現すものである、あるいは神聖なものと考えられる夢であるという。ハシシの酔いはこれらとは違う。ハシシの酔いは色彩が強烈で発展の迅速さから一つの夢であるように見える。そこでは、その個人は夢に支配されている。しかし、この酔いは当の個人に独特の調性を持っているので、自らの思念の中にある超自然的なものを人工的に導きいれたものに支配されていることになる。同じ人間が増大して強力になり、同じ数が極めて高い「べき」になっているという。「彼は夢に屈従せられている。しかし、不幸なことに、彼自身によって、彼自身の心の中の支配的な部分だったものによって屈従させられている」とボードレールはいう。ハシシの「酔い」に時に現れる心象や効果は、自己の外から来るものではない。むしろ、強大となり抵抗できなくなった自己のある部分に屈従することなのである。

 谷崎に戻って第四の点は地震についての不安である。大正5年というから関東大震災はやってきていないが、明治26年の7月に「大地震といってもいいくらいの素晴らしい奴」にでくわしたという。これはおそらく明治27年6月の「明治東京地震」で、ここでは谷崎が年号を一年間違っているのだろう。彼の「幼少時代」にも登場する地震である。いずれにせよ、その地震を小学生の主人公は日本橋の蛎殻町で経験した。東京の大通りが高々と上空に釣りあげられ、やがて悠々と低くおり始めるのを彼は見て、その記憶がよみがえってくる。それだけではなく、彼の家に住む老婆は安政の大地震を経験していたから、安政の大地震のときに、どのような地鳴りがあったか、東京の中でどこの地が危険であるかという深川浅草本所のあたりだが、山の手といえども安全ではないこと、家屋の中で平屋と二階建てとどちらが安全か、二階建てが崩れるとしたら危険な場所はどこかという妄想がこまごまと描かれ、それは大地震がくる悪夢への発展していく。・・・そこで目が覚めると、病床で休んでいたという発想である。