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大正期の産婆・看護婦は「悪擦れ」した女性になるか?

谷崎潤一郎の短編「美男」は大正5年9月の『新潮』に発表された。ほぼ同時期の「亡友」と同じ、若き日の友人を記述するという形式である。「亡友」も性欲が主題であるが、「美男」も、女にもてるだらしない人物を記述している。「亡友」も面白いが、「美男」に好ましい女性・好ましくない女性について面白い記述があり、それが産婆と看護婦のイメージを重ね合わせられていたのでメモ。

 

美男の友人は「K」である。昔から女にもてていたが、高商の学生時代に、麹町の高等官の令嬢で都下でも有名な女学校出の才媛と、いろいろあった末に結婚する。学生結婚ということで、谷崎たちは興奮してその夫人に会いに行くが、彼女はたいへん好ましくない女性であり、谷崎らは失望して反感すら持つ。基本的には明治から大正期の若い男性が抱いていた理想の女性像に合わないからであるが、その合わない様子が面白い。まず容姿がいけない。そばかすが多い、唇と鼻の先が尖った「烏天狗のような」不愉快なありさまであること。口のきき方も、妙に生意気で歯の浮くような漢語や英語を交えて、谷崎たちの反感を挑発する。最後に重要なのが雰囲気で、女学生らしい若々しさもなく、かといって意気な年増の様もない。その様子を「産婆か看護婦上りのような悪擦れのした干涸びた表情を持っていた」とある。産婆と看護婦、あるいは産婆や看護婦を経験した女性が、よろしからぬ女性を形容するイメージの焦点となっている。

 

もちろんここにあるのは、明治大正期のエリート階級の男性の差別的な女性観なのだけれども、産婆や看護婦の仕事に携わっていると、女性は「悪擦れ」していくという考えは、医療の歴史上のとても重要なことに触れていないか。そこにあるのは肉体との接触の問題だろうか。他人の肉体や生殖器に深くかかわり、時としてはそれに触れながら行う仕事は、女性を悪擦れさせていくというのだろうか。多くの売春婦が悪擦れしていくように。あるいは、病気や誕生や死という問題だろうか。産婆や看護婦は、日常的に人の生活の本質にかかわる健康や病気や、人の存在そのものにかかわる誕生や死という現象に「かかわりすぎる」職業だというのだろうか。あるいは、この可能性は低いと思うが、産婆や看護婦が持っていた職業婦人としての自負がけなされているのだろうか。女学校でならった英語や漢文を谷崎たちの前で偉そうに口にしてみるように。

 

三つの可能性を示して、そのうちどれでもいいと思うが、この時期の産婆や看護婦は、漠然と否定的なエリート男性たちの態度の中で職業形成をしていたことも憶えておこう。

 

ちなみに、この女性は、のちに美男のKが浮気をして別の女を作ると、その女を自分よりも「生理的に勝れている」と記述する。この記述の「生理的」という用法も憶えておこう。もう一つ憶えておくべきことは、彼女が興奮してヒステリーになり石炭酸を飲んで苦しがるありさまが冷淡に描かれていることである。これが「ヒステリー」に対する普通の態度であったことも重要である。