夢野久作と精神医学者・諸岡存

夢野久作と諸岡存

夢野久作ドグラ・マグラに影響を与えた精神医学者として、榊保三郎の研究室で助教授をしていた諸岡存(もろおか・たもつ 1879-1946)を上げなければならない。諸岡は、1935年1月末に東京の内幸町の大阪ビルの「レインボーグリル」で行われたドグラ・マグラの出版記念会の時に、夢野が招待した精神医学者である。諸岡については、茶の研究者の岩間眞知子がおそらく詳細な研究をしていて、まだ取り寄せが届いていないが、おおまかなところを紹介する。九州帝国大学医学部・精神科の卒業生でイギリスに留学した。このイギリス留学は、おそらく第一次世界大戦の関係で、日本の医学生の留学先の絶対定番だったドイツに行けなかったことによるのだろう。そのイギリスで毎朝紅茶を飲んでいたことが、後に茶の研究者となったことに発展する。榊教授のもとで助教授をしており、榊とともにスタイナッハの若返り法を紹介する書物などを執筆している。榊が退職し、下田が新教授に就任した時期に合わせて、昭和2年に九大の助教授を退職し、東京に移って駒澤大学の教授となった。東京に越したのちには、『智恵子抄』の高村智恵子を診察したことでも知られている。しかし、東京に越したのちは、精神医学のテクニカルな研究はほとんど発表せずに、イギリス留学中のことをヒントにした茶の効用を説き、そこから発展して東洋の精神文化を論じる論客になっていく。その過程で、『喫茶養生記』の校訂や、重要な著作の研究などの価値ある仕事もしていると岩間は指摘している。ちなみに、医学者が生理や身体の科学から出発して独自の文明論に発展するというのは、近代日本でしばしば見受けられる現象であり、西洋の医学が日本社会で公共の知識になる過程を考えるうえで重要なヒントを与えるので、一度研究してみたいと思っている。諸岡は、その流れに乗って茶を素材にした精神医学者であるといえるだろう。

 

色々書いたけれども、ポイントとしては、昨日と同じである。ドグラ・マグラについての構想をまとめ、それを書き始めた時期である1920年代の半ばに、それまで夢野が精神医学についてヒントを受けてきたであろう精神医学者である榊と諸岡が夢野の環境から離れることになった。その段階から出版までの書き直しに10年かかったと考えるのがいいだろう。

 

なお、九大のサイトで夢野と諸岡存の関係が紹介されている。

http://www.med.kyushu-u.ac.jp/app/modules/information/detail.php?i=375&c=4&s=0&k