スモンと日本の難病対策の形成

渡部沙織「『難病』の誕生―『難病』対策と公費負担医療の形成」明治学院大学社会学研究科大学院、修士論文(2014)

いただいた修士論文のメモ。優れた論文だと思う。

日本で「難病」と定義されている一群の疾患の位置づけと患者への対応の仕方は、1970年代の初頭から、厚生省(当時)が行政的に形成したものである。その形成にとって、スモンへの対応がモデルを提供し、後の「難病」対策が従う基本的な形、すなわち医学研究が主導的な立場をとるというパターンを決定づけた。スモンは、1950年代から散見されて50年代末には臨床医によって研究報告が行われるようになり、60年代には薬剤のキノホルムが原因であるとされ、70年代初頭に「難病」としての処置の構造が定められた疾患である。九州の三池炭鉱の三井三池工業所病院の勝立分院で10名近くの患者が診療され、その地域では「勝立病」という呼称が成立した。その後、60年代に入るとスモンは全国で集団的に散見されるようになり、厚生省は一連の研究組織を発足し、1969年には大型研究班を発足させた。この研究会のメンバーらの研究を通じて、1970年にはキノホルムの販売が中止され、1972年にはキノホルム剤の服用がスモンの原因であると結論付けられた。比較的素早く、病因の確定などの狭義の医学的な成果を上げたことになる。その後、80年代の初頭にいたるまでこの研究班は継続したが、この体制の中で患者の福祉があらたな目標として設定される。ここが面白い所で、そもそも患者の福祉の問題であるにもかかわらず、難病研究に患者が協力した謝金という形で支払われている。この形態は、欧米諸国にはない、日本に特徴的なものであるという。この形式を「疾患名モデル」と名付けている。「研究と臨床の場の一致を基盤として、『難病』の医科学研究が推進され、そこには本来は患者救済のためのように思われる公費負担医療制度が据え置かれているという、奇妙な体制が日本の難病対策の特徴となった」という。