アメリカ軍が視た戦争直後の日本の精神医療

Cotton, Henry A. and Franklin G. Ebaugh “Japanese Neuropsychiatry”, American Journal of Psychiatry, 103(1946), 342-348.

 

日本の精神医療の歴史的な形成が持つ一つの特徴に、自らを批判的に見る機会が少なかったことが挙げられる。たしかに、呉秀三をはじめとするドイツ留学組が、東大精神科や後に松沢病院を通じてドイツの精神病院のモデルを導入したこと、それが一つの教育的な規範となったのは事実であり、東大を卒業し松沢病院で研修した医者たちによる精神医学史が注目・主張することは全く正しい。一方で、その影響が非常に限定的であったこと、そして、松沢のモデルを他の精神病院に広めるための行政的な仕組みをもっていなかったことも事実である。戦前の日本の精神病院は、病院数で言うと90%以上、病床数で言うと80%以上が、私立の精神病院であった。私立の精神病院はもちろんその設立や建築などに関して警察に管理されていたが、警察による管理は、松沢に似せるという方向とは正反対のもので、どちらかというと監獄に似せる方向であった。より重要なことは、私立の精神病院の建設、運営、治療などが、ある水準に達しているかどうかを管理する仕組みが、少なくとも戦前には存在していなかったことである。私立の精神病院はいい言葉で言うと自発的に、悪く言えば場当たり式に精神病院を建設・運営してよい制度的な状況にいた。そこまではおそらくたしかだと思っている。

 

そのような日本の精神医療にとって、敗戦とアメリカ軍の進駐にともなう視察は、数少ない「批判的に見られる」経験であった。戦前の日本の精神医たちが、どうせドイツの精神科医の口真似をしたのだと思うけど、アメリカの精神医療をおおぴらに軽蔑していたのは事実であり、戦争に負けた途端に、この論文で報告されているように、アメリカより遅れておりやすと卑屈になったのも事実である。

 

面白い点を二つ、いや三つ。まず、優生学と断種について。アメリカ人たちは、日本にも断種の法律はあるが、それはきびしく実行されていないといい、「全体主義の国家ということから予想されるより、親の個人としての欲求が非常に尊重されている」という言い方をしている。国民優生法と全体主義国家と、その時期の親の意向が持っていたステータスというか、意思決定の過程における力の大きさについての、とってもクオータブルな言葉である。

 

もう一つが、病院内の医師と患者関係、そしてその表現の一つとしての患者の暴力である。これは日本の精神病院と欧米の精神病院をくらべるとすぐに気がつくことであるが、相対的に言って日本の患者には欧米の患者に比べて暴力をふるうことが少ない。この観察は、二人のアメリカの軍医もはっきりとアメリカより暴力が少ないと記しているし、彼らにインタビューされた日本人の精神科医たちも同じことを言っているし、私もそう思ってきた。イギリスの症例誌を読んだ経験から、日本の症例誌にも、患者が拘束されたことや、激しい暴力沙汰がさぞ頻繁に登場するのだろうと予想していたが、その記述は非常に少なかったし、私が書いた記述を読んで、これが本当に精神病院の様子なのかと問い詰められたことすらある。この記録でも、鎖などの機械的拘束は一切ないし、隔離室もめったに使われないと感嘆している。これは、アメリカ人の精神科医によると、日本文化は規律になれているからであるという。日本文化の中で精神病院というのはごく新しい現象なのに、規律になれていると申しますか。

 

第三のメモは、誤解を呼ぶかもしれないが、東大と慶應の精神科の比較の話。彼らが直接訪問した大学の精神科教室は内村祐之の東大と植松七三郎の慶應である。慶應は戦争中に爆撃を受けたので、教室の建物は存在しなかったが、彼らによると、慶應のほうが東大よりもずっとよいと思うし、そう考えるアメリカ人が多いとのこと。植松はハーバードとホプキンスで学んでいること、内村のアメリカ嫌いもあったのだろう。