戦前の医学における日本食主義と精神医学

諸岡存『快食快眠快便』(東京: 實業之日本社, 1939)

 

諸岡存(たもつ)は精神病学者で医学啓蒙家。九州帝国大学精神科の助教授であったが、教授の榊保三郎が不祥事で退職し、下田光造が教授に就任したのちに九大を退職した。東京に移動して、ジェームズ坂病院という精神病院の院長となり、高村智恵子を診療した。駒澤大学の教授となったが、駒澤で何をしていたのか、ちょっとぴんとこない。医療よりも茶の研究に関して広く深い研究をしたことで有名である。

 

この書物はこれまで諸岡が様々な雑誌などに書いてきた医療啓蒙的な記事をまとめて1939年に刊行したものである。そのため、非常に戦時色が強いトーンを持つまえがきがついており、そこでは、事変以来、日本は健康になったという議論が繰り返されている。危急存亡の秋に直面して国民が一斉に緊張して病気などしておれなくなったというのである。戦争にともなう好戦的な緊張が健康に良いというのは、日本でもイギリスでもよく聞く話である。

 

しかし、諸岡においては、この好戦的・戦時意識的なトーンに、日本にとって近代化とは何か、そしてそれは日本人の身体にどのような影響を持つのかという問いが重なってくる。日本の戦争は西洋文明と大東亜の文明の競争でもあり、その中で西洋型ではない身体の健康のモデルを作らなければならない。それを諸岡は、数十年に亘る西洋文明の氾濫は、日本国民の生活を向上せしめたかに見えたが、その実は体位の低下を招来した。肉類の過食、砂糖の過食、精白米の過食、自然から遠ざかりすぎた文明流の偏食、糖尿病、腎臓病、また動脈硬化などは偏食に基づいた文明病であるという。諸岡は、日本風の食事の中に、真に健康によい食事があるという。

これは、本当に面白い問題である。現代の日本で、日本食と西洋食とどちらが体に良いか?と聞いたら、多くの日本人は日本食と答えるだろう。そこにはもちろん民族主義的な考え方もあるが、その論拠はと尋ねられた時に、健康指標が多くの西欧の国家よりも良いことを上げる日本人が多いだろう。それが正しいかどうかは知らないが、それはそれで理にかなっている。問題は、この時点では、日本の健康指標を欧米諸国のそれと較べると、まったく太刀打ちできなかったにも関わらず、諸岡は日本食が良いと言っていることである。そして、それを言っているのは諸岡だけではなく、多くの一流の医学者・科学者がそう言っている。彼らは疫学的・統計的な事実を無視して実験室的に正しいことを言ったのか、それともただの国粋主義的なでたらめを言ったのか。

 

別の箇所について。この部分は、戦時中であったために検閲で削除された部分なのだろうかと想像した箇所がある。ある節に、「女のヒステリーと男の子宮病」という表題がついている。内容としては、ヒステリーという疾病の名称は、もともとギリシア語で「子宮」を意味する言葉が語源で、19世紀まで女の病気だと思われていたが、19世紀末から男性のヒステリーという診断が現れはじめ、そして第一次大戦の時にはシェルショックのもとで「ヒステリー」の診断を受けた男性兵士が大量に現れた。その流れで記述するべきタイトルであるが、中身を読んでみると、男性のヒステリーの記述が一切ない。これは、以前には書くことができた欧米の第一次大戦の戦場における男性兵士のヒステリーが、昭和14年には書くことができなくなったので削除したということなのだろうかと想像する。

 

それ以外に、いくつかメモ 

 

精神病の予防には香りのよいものを飲めという。彼が勧めているのは玄米を炒って作る「麦湯」。精神病は身体が腐っており、臭いが悪い。芳しいものをとれ。

 

白隠「知恵ある人の病中ほどあさましくものぐるしい物はない」(240)

 

中学を卒業して仕事をしているものに、在学中における試験の夢を見るかという質問をしたところ、「夢をほとんどみない」3人、「試験の夢をみない」4人、「時々みる」2人、「しばしばみる」34人であった。