ニューロ・ヒストリーと「イミュノ・ヒストリー」

若い研究者たちと意見を交換しているときのアイデアをメモ。

先日記事にしたが、今週末に一橋大学でイギリスの精神医療の歴史を研究している高林陽展先生が「ニューロ・ヒストリー」について報告することになっている。高林先生の実力と「ニューロ・ヒストリー」という主題の魅力が重なって、すでに大変な話題になっている。きっと、批判的で創造的な報告をするのだろうと思う。

ニューロ・ヒストリーは、私の専門である精神医療と精神医学の歴史にそこそこ近い領域だが、私はまったく勉強していない。その無知は申し訳なく思っている。ただ、本当に正直にいうと、ニューロ・ヒストリーにあまり興味を感じない。ニューロ・ヒストリーは、脳神経科学と歴史を組み合わせたものであると思っていて、記述の基本は、過去の人々がXという行動をしたのは、脳神経科学で説明されるYという身体現象がその時に起きたからだというパタンを取る。この説明そのものに対して、私は、困惑を感じる。どこにその説明を採用するのが適切であるという論拠があるんだろう、どうやったらこの人たちと論争できるんだろうという道筋が想像できない困惑である。これは、かつて主にアメリカで隆盛した、フロイト流の精神分析と歴史を組み合わせた歴史学に感じたのと同じものである。精神分析の無意識もそうだし、脳神経現象もそうだが、そこで仮定されている神経現象は歴史的な記録を一切残さない性質のものだからである。

これは高林君のアイデアだが、それに対して、免疫系の歴史の議論は歴史学者たちに受け入れられている。まさにその通り。私の専門ではないけれども、免疫と歴史が関係する現象に関しては、査読雑誌に論文まで書いている(笑)それを信じるということは、過去の人々の免疫抗体を見たことがあるのか、あるいは見ることができるのかと反論されると、たしかに免疫抗体を歴史史料として見たことはない。私が見たのは疾患の臨床的な記述と、過去の医者の診断と、患者数などが描くパターンである。それを信じて、なぜニューロ・ヒストリーには興味を持たないのか。イミュノ・ヒストリーには何があるから、私はその方法論と歴史系の学問としての正当性を信じているのか。面白い疑問だと思う。高林君はきっともう回答を用意してあるのだろうと思うけど。

そんなことを考えていたら、ちょうどイミュノ・ヒストリーに関連する論文と議論がイギリスのBMJで始まっているという情報。この論文を読んでから考えよう。

 

 

 

bit.ly