高校時代の同窓会に出て

今日の記事は、いつも私が書く記事とはまったく違い、それどころか書かないようにしてきた個人的な性格を持つものだが、これは書いておく。

週末に、高校の同窓会に出た。卒業してからはじめてだから、30年以上もたって開かれた同窓会である。

私が卒業したのは、静岡の清水東高の理数科である。これは、1・5流の高校に作られた超一流の学科で、全県一区で40人のエリートを3年間同じクラスで教育するシステムである。自分の高校を1・5流というのも失礼な話だけれども、隣町の静岡に静岡高校という名門があり、これは立地も校風も校歌も、本物の一流高の品格を感じさせる。静岡高校を出た父親に言わせると、清水東は「庵原の山猿」と言われていたとのこと。これは、ある部分においては現在でもあたっている。ううむ(笑)

また、自分の出た学科を超一流というのも傲慢な話だが、学ぶ進度も内容も受験の実績も、そういっていい。高校一年の時の数学の授業で群論を教えられたし、42人のうち、だいたいの数字だが、東大に10人、京大など旧帝大に10人、医学部に10人くらい入った。これを誇りにするというのも恥ずかしい話だが、私は誇りにしている。

しかし、そんなことはどうでもいい。他の科目はともかく、英語の教育では、私たちは過酷で苛烈な授業を受けた。クラス担任で英語のすべてを担当した故戸田豊先生のおかげである。戸田先生の授業は、どの授業でも、高校の水準をはるかに突き抜けた高度な内容で、その質問は、最初のころは何を聞かれているのか意味すら分からないほど高度なものだった。それを生徒を一人一人起立させて聞く。答えられなかったり、間違ったりすると、全身から軽蔑感を発散させ、冷笑を浮かべながら、その学生を罵倒する。私自身が言われたものの中では「下等な奴だ」という言葉と、軽蔑を込めた表情で「けだものみたい」というものを、今でもはっきりと覚えている。おそらく、もっとひどいことを言われた生徒もたくさんいた。まず間違いなく、全員がそうだろう。

悪いことに、授業の時間は普通の50分ではなく、65分あった。休み時間でも、彼は早くきて授業を始めるから、おそらく75分くらいの授業だった。夏休みとか冬休みとか春休みには補講があり、もちろん戸田先生の英語は必ず入っていた。毎日一回、実質75分の授業で、冷酷で侮蔑的な言葉を浴びながら英語を学ぶという生活が3年間続いた。この教師は、現在なら、ほぼまちがいなくハラスメントで3日で首になるだろうし、私が自分の娘の進学を考えるときに、まず最初に言ったことは、清水東の理数科には決して行かせないということだった。

高校時代の話にもどると、私たちは(少なくとも私は)、すぐに、この男と闘う覚悟を決めた。当時はまだ15歳にもなっていない少年少女たちにとって、全身全霊を傾けた闘いだった。彼が推薦してくれた英英辞典のOALD(たしか当時は第三版だったともう)を調べぬいて、ある単語の意味と用法を英語で把握し、その文章を別の構文でいうとどうなるか、同義語で言い換えるとどのような構文を取るかを把握していくと、この男と闘える。気が遠くなるような時間をかけて予習をして、この男の侮辱的な質問に答えられるようにすればいい。しばらくすると、次々と生徒を起立させ、質問をして答えられないと順繰りに罵倒を浴びせかけていくこの男の質問に対して、正解を出せる学生が増えてきた。私たちは、この男の質問の継続を「止める」ことができるようになった。勝利したという実感はまったくなかったが、3年生になったころには、私たちは「持ちこたえる」ことができるようになった。

もちろんそれでも血みどろの戦いは毎日続いて、数えきれないほどの深い心理的な被害が出た。この男との闘いは、私の性格のある部分をはっきりと歪めた。しかし、それから東大やロンドン大学の学部や大学院で学んだとき、私は、たしかに、そこにはいない戸田先生の影と闘っていた。東大の故廣松渉先生や、佐々木力先生は、もちろん品格は違うが、私の幻影の中では、たしかに戸田豊の影があった。ロンドンのロイ・ポーター先生ですら、私は戸田先生の影を見ていたのかもしれない。そして、気がつかないうちに、私は、学問をすることとは何かを学ぶようになっていた。私はいまでは教える立場になっているが、そこでも戸田先生の影が、どこかにあるのではないかと恐れている。それと同時に、彼がいなければ私には生まれなかった高度な知識と洞察への情熱を、学生に伝えることができればと思っている。

戸田先生は、私が憎しみに限りなく近い感情をもって尊敬している教師である。戸田先生のご慰霊に、心からの感謝をささげたい。

 

もっと楽しいことも書いておこう。東大で地球物理学を学んで、いまは名古屋大学で教えている渡邊誠一郎君からは、お忙しい中私たちに講演をしてくださったが、それは渡邊君が責任者の一人をつとめるJAXAの「はやぶさ2号」についての胸がわくわくするお話であると同時に、小惑星を調べることが、どのような地球上の生命の根源の理解に貢献するのかを私たちにもわかるように説明してくれた、本物の学問だった。歯科医となった五十嵐誠君や、医師になった影山善彦君は、この会の実現のために努力していただき、昔と同じように、それぞれの仕方で魅力がある人柄だった。埼玉医科大学放射線医学の教授となられた市川智章君と、イーライ・リリーの日本支部のどこかの長をしておられる城戸昭彦君とは、駅前の居酒屋で朝の3時まで泥酔して何を話したか記憶にないような時間を過ごした。他の同級生たちとも楽しい会話をした。彼らとともに学んだことを誇りに思う。30年以上たったあとで初めて開かれた同窓会は、とても楽しかった。皆さん、ありがとう。