医学史は何の役に立つのか― 科学技術政策懇談会(9月15日)講演 

「医学史は何の役に立つのか」

 

9月15日の夕刻に開催された「科学技術政策懇談会」で、「医学史は何の役に立つのか」という話題提供を致しました。10名から20名ほどの、文部科学省の科学政策に関連する皆さまが聴き手でした。皆さまがくつろいだ雰囲気を作ってくださったため、私の講演もつつがなく進み、それに続く1時間あまりのディスカッションも、和やかながら本質的な問題が議論されるものでした。この講演と議論は私にとって、日本の医学史の方向性について本気で考える初めての機会であり、また生まれて初めて官僚の皆様と真面目な話をする機会でした。本当に失礼なことですが、「官僚的」というと、形式主義、ことなかれ主義、責任のがれなどの態度を含意することもあり、どうなるのかなという不安は多少あったのですが、現実の状況を、プラスの面もマイナスの面も正直に伝えたことがよかったのか、学者たちと議論するのと同じような、あるいはそれよりもさらにダイナミックな議論ができたと思います。

 

 山口一男の「国立大学改変問題によせて―何が本当の問題か」という論考は、自然科学と人文社会科学の連携について、アメリカと日本を比較して、アメリカが両者を接合させた組織づくりをするのに長けているのに対し、日本はそれが上手くいかないと指摘している。(1)アメリカのコロンビア大学の医学部や公衆衛生大学院では、著者の山口氏を含めて、医学部以外の出身の学者たちが教鞭を執っていたという。著者は数学を学んだのち社会学を学んだ学者であったが、この公衆衛生大学院で社会学を教えており、他にも社会心理学者や歴史学者が公衆衛生や医学部で教えていたという。(後者はロスマン先生のことだろうか?)一方日本では、このような人事や講座の構成自体が少ないし、あった場合でも新設の学科や講座がタコツボ化するという、丸山真男が指摘した構造がいまだに残っているという。私の個人的な経験でも、アメリカやイギリスの大学において、医学部と人文社会系の学問の通気がいいのは確かだと思う。私自身のイギリスで融合的な制度の中で教育されたし、私が慶應経済で教えた松浦君も、経済学と医学史を学んだあと、ハーバードの公衆衛生大学院でポスドクをして、オクスフォードで経済と医療・健康について教えている。(2)

 そのような事実は制度的な説明として重要であり、日本の医学史をめぐる大学などの組織をめぐる設計が将来的にありえる場合には、重要な論点となるだろう。ぜひ心にとどめておきたい。しかし、より重要な問題は、そこで教えられる医学と連接した人文社会科学の内実であり視点であり大きな主題である。人文社会科学の背景から現れた歴史学が、医学部と連接する医学史を作るときに、どのようなものを目指せばいいのか。医学の歴史的な発展を称賛すればいいのか、医学の歴史上の小さな過ちや構造的な変容などを批判攻撃すればいいのか。もちろん、どちらも大きな方向性の導きとしては的を外している。1980年代以降の新しい医学史は、前者はもちろん、後者の方針で発展したわけではない。大きな主題の転換、新しい方法論により新しい側面を見るようになった結果、結果的に過去の医療の過ちや全体としてマイナスとなった構造変容を指摘した論者はもちろん多い。私自身もその一人である。しかし、それは新しい方法論が導いた帰結であり、医学批判の船に乗った結果ではない。

 それならば、どのような方法論と視点の転換が英米ではあり、日本ではこれから予想されるのか。それを実現するために、日本では何が行われており、これから何をすればいいのだろうか。そのようなことを話してきました。

 

 

(以下は講演で配布した資料です) 

 

 

「医学史は何の役に立つのか―英米と日本の状況の比較から」

 

鈴木晃仁(慶應義塾大学・経済学部)

2015年9月15日 科学技術政策懇談会における話題提供

 

本日の話題提供 

 

  1. 自己紹介と医学史という学問の紹介
  2. 1980年代の英米における発展とその特徴
  3. 日本における状況とその特徴
  4. これからの日本における医学史の発展と定着のために何ができるのか
  • 学問的な基盤
  • 社会・文化的な発展
  • 問題と可能性

 

  1. 自己紹介と医学史という学問の紹介

 

自己紹介

  • 東大・教養学科・科学史科学哲学科卒業(1986) ― 東大・総合文化大学院・地域文化専攻(1988) ― ロンドン大学・ウェルカム医学史研究所 PhD (1992) ― 同研究所 PD(1992-95); アバディーン大学PD(1995-96)―慶應義塾大学・経済学部・助教授―教授 (1997-現在) 
  • 業績は、With Chris Aldous, Reforming Public Health in Occupied Japan, 1945-52: Alien Prescriptions? (London: Routledge, 2011); Madness at Home: the Psychiatrist, the Patient and the Family in England 1820-1860 (Berkeley: University of California Press, 2006) 他 

詳細は https://www.academia.edu/15622398/CV-Rirekisho; https://www.academia.edu/15622455/List_of_Works

 

医学史という学問とその展開

  • もともと古典医学を教える科目であったが、19世紀ドイツのギムナジウム教育と歴史の重視の影響を受けて成立、20世紀前半から中葉にかけてドイツや、ドイツからの移民を受け入れたアメリカの医学部・医学校の科目として興隆する。
  • このような医学史がいったん停滞したのち、1970年代半ばからからイギリスのウェルカム財団の大きな援助をうけて、人文社会科学系の歴史学、特に当時の有力な視点であった社会史、文化史、環境史を取り入れた新しい医学史が始まった。この新しい医学史が、ロンドン(UCL) のウェルカム医学史研究所を軸とした主要大学で教えられて、1990年代からイギリスの医学史の黄金時代が現れた。
  • 2010年に、ウェルカム財団はこれまでの助成の範囲と対象を大きく変えて、医学人文学 Medical Humanities 全般を支援することになり、プロジェクト形式の大きな助成が競争的資金として多くの大学に与えられている。

 

 

  1. 1980年代からの英米における発展とその特徴
  • 1980年代からの欧米において、医者、病院、患者、社会における医療と疾病の位置づけなど、これまでと異なった主題の立て方と、現在の医療の問題に<かかわる>仕方で研究が構想されるようになったこと。

「医学と医療の歴史」斉藤修他編『社会経済史学の課題と展望』(東京:有斐閣、2002)426-439.

 

 

  1. 日本における状況とその特徴
  • 戦後の日本の医療界の対立を反映して、医療体制の擁護派による医学の偉大な達成に注目した歴史と、左翼系の批判派による日本の医療の欠陥点の分析に着目した歴史の対立と共存が続いた。両者が衰退した後、1990年代・2000年代から、人文社会系の研究者によって新しい医学史の研究が現れた。学問的な方法論としては、ミシェル・フーコー、身体論、ジェンダー論、医療倫理学(医師―患者関係)などが蓄積となり、方向性としては、医療を社会―文化の一部の問題として捉えて、その中で問題を指摘して解決しようという態度が主軸となった。
  • 研究主題としては、ハンセン病、明治の公衆衛生、優生学、精神医療など。医療社会学、医学と民俗学文化人類学、文学研究などとの領域とも接触。海外の研究者との密な接触。

 

「医学史の過去・現在・未来」『科学史研究』no.269, 2014: 27-35.

 

 

  1. これからの日本における医学史の発展と定着のために何ができるのか

学問的な基盤

  • 歴史学的な古文書・資料の基盤 - 整理が着手されている。個人開業者、私立病院、公立病院などを中心にした資料整理が進んでいる。
  • 人文社会科学の中での何らかのまとまりを作る必要があるのか。
  • 医学との連携 - 欧米においては、1980年代に形成された人文社会科学的な医学史の拠点に、医学教育がすぐに連携をはかり、医学教育の中に洗練された医学史が取り込まれる仕組みが形成された。日本では、そのような試みは散発的に個人の教員をベースにして見られ、医学史で博士論文を書く医学生・医師たちも現れ始めている。これをどのように組織化すればいいのか。

 

社会・文化的な発展

  • <医学史>をどのような形で社会に広め、現在と未来の文化発信の中に組み込むことができるか。 近い過去には、ハンセン病をめぐる問題や、医学史マンガ『仁JIN』など、ある意味で両極端の医学史の大きな発信源があったが、それらとは違う発信の仕方で、現役の研究者たちがどのように医学史を現代社会と文化に位置づけるのか。
  • 2015-2018「課題設定による先導的人文学・社会科学研究推進事業」実社会対応プログラム:医学史の現代的意義―感染症対策の歴史化と医学史研究の社会との対話の構築

 

問題と可能性

  • 院生やPDなど若手研究者の確保、国際性の確保、人文社会科学内部での連携は、比較的取りやすい。大きな問題は、医学部、医療関係との連携の取り方。
  • 可能性としては、21世紀に期待される新しい医療像が、治療技術の向上だけにとどまらず、患者と医療者の双方が満足する社会的・文化的な仕組みになっていくときに、医学史を中心とした医療人文学、医療社会科学は、医療を改善するさまざまな可能性を持っている。学問的には多領域にまたがって、それを実現する方策が見つかりにくいこの運動を、どのように実現するのか。