胎児の辰砂入り保存標本と人工的なガラスの眼球

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Boer, Lucas et al. "Frederik Ruysch (1638–1731): Historical Perspective and Contemporary Analysis of His  Teratological Legacy." Americal Journal of Medicial Genetics A, vol. 173, no. 1, 2017, pp. 16-41,  doi:doi:10.1002/ajmg.a.37663.
 
ルイシュは独自の解剖標本の保存液を発展させ、大規模な標本群を所蔵して人々に見せるようになっていた。しばらく前からそれを見ていたロシアのピョートル大帝が、1718年に購入を希望して1,500件ほどの標本群を買った。これはセント・ペテルスブルクに設立されたロシアの最初の博物館である The Peter the Great Museum of Anthropology and Ethnography (Kunstkamera) という博物館の原型を形成した。その後もきちんと管理され続けると同時に廃棄されたものもあり、現在では916件の標本がある。そのうち63件が胎児の状態で障碍とともに生命を失ったケースである。障碍での胎児の段階での死亡は、ルイシュの書物にもしばしば登場するが、理論や説明(explain) ではなく記述(description) であるという。死後に辰砂(ある種の水銀らしい)を含む保存液を注射したため、頬が赤くなっているという。うううむ。