『丹生の研究』が水俣と公害の時期に研究主題として流行しなかった理由

松田先生という歴史学者が、約50年前に素晴らしい著作を書いた。『丹生の研究』という書物で、日本における丹生(にう)・朱砂(しゅしゃ)・丹砂(たんしゃ)などと呼ばれる硫化水銀の化合物の利用についての地理学的な歴史である。地名の調査と神社訪問を繰り返し、「丹生」またはそれに類する地名を探し、その土地に行って「丹生都比売(にうとひめ)」という神社を探そうという巨大なプロジェクトである。多くの方は『古代の朱』という文庫本で知っているだろう。その原型となった学術書が『丹生の研究』である。『古代の朱』も素晴らしい文庫本だが、『丹生の研究』も素晴らしい学術書であると思う人が多いだろう。

 

しかし、『古代の朱』も『丹生の研究』も、その実力に較べると、知名度は非常に低い。その理由は、この研究が進行した1950年代から60年代という時期が、戦後の日本での水俣の公害問題が明るみに出されていく時期とほぼ一致していたからだろう。日本社会全体が水俣での水銀公害を批判している時代に、古代日本で水銀化合物を利用する技術を論じ、それによる地域構成を分析して、それらが地域社会に大きな貢献をしたという議論は、うまくそぐわない。現代の公害批判に力を入れる方向と、古代の朱砂技術を高く評価する歴史学の手法は、ある時代にともに発展することが難しいからだろうかと思っていた。

 

『丹生の研究』のミイラ・即身仏を論じたところで、松田自身がこの問題に触れている個所がある。即身仏真言宗の行者らが水銀化合物を飲んでミイラの状態になった状態であり、その周縁の土地やネズミのミイラなども非常に高い水銀の数値を含んでいる。そのあとで、このように書いている。「丹薬製造にあたっての死亡は、近時まで水銀鉱業に住持する人たちの間に折々見られたヨイヨイ的症状と同様に、水銀ガスの猛毒が考慮されている」という文章に註をうち、次のように書いている。

 

この考えは矢嶋教授と談合のうえ昭和37年[1962年]6月18日に筆にしたものでにある。その後、河川に浸出した有機水銀の問題が公害として世間を騒がせた。そのとき人体や動物体に及ぼす水銀の作用が新しい問題として多くの人の口にのぼった。しかしいま論じているのは無機水銀であり、矢嶋教授がこれだけの実験を積んでいられたことを閑却してはなるまい。

 

松田らは自分たちの研究が、水俣で患者の観察や動物実験を行うかのような気持ちであったのだろう。即身仏の研究は、環境と周囲の動物を使って行われた。即身仏の周囲の土壌の水銀濃度が非常に高いことが調べられ、ミイラねずみと呼ばれていた高度の水銀を持つミイラの体を食べて死んでしまった動物の身体を採集しての調査だった。ほぼ同じことが、熊本大学の医師たちが、水俣の河川や海の観測、そして実験室でのネコの実験などによって水銀と公害の関連を証明していた。この理由のため、古代の丹生の優れた研究の知名度を下げ、その一方で、環境と動物実験の水銀値測定という同じ方法を用いているということも明らかにしているのだろう。

もう一つが、この手法で明らかにされた古代の水銀化合物を利用する村の多くは、現在でも進行している村である。その中には、初期の水俣が批判されたように、特定のグループのような意味合いも持っている。巻末の日本地図は、古代水銀の技術共同体をほめているのか、水銀に汚染された街を書いているのか、わかりにくくなるのも、このフィールドワークの仕事と関係があるのだろう。