薬の歴史の背景

道教と医学の間には強い関係が存在した。ことに、医学の中でも本草に対して道教が持った影響は、中国と日本においても、古代と中世において、より強力であった。古代のアニミズムと宗教を強く持つ道教は、似たような傾向を持つ医学と結びついていた。ことに本草は、神仙へのアプローチの重要な方法であった。中世においても、錬金術的な加工で霊薬を作る方法が流行し、失敗例も多かった。これは、薬が持つ魔術性と、道教が社会と合理性に対して持つ批判性を示唆している。
 
しかし、中国では宋代になるとともに、本草がより儒学的な性格を持つようになった。儒学は、君主の権威を支える学問であり、父親の権威に従う学問であった。それと関連して、多くの書物や手稿へのアクセスを持つことが重要な特徴であった。そのような性質を持つ本草学が中国においては宋代に発展し、元代や明代においては、膨大な数十巻の博物誌となり、自然界における情報を合理的に管理する特徴を持つようになった。
 
ヨーロッパの初期近代の医学においては、書物と自然の双方への興味が発展していく大きな動きが存在した。人文主義の発展と、自然を観察する技術の発展を、二つの大きな革新として進展した。大学や医学校で教育される医師たちの多くがラテン語ギリシア語をマスターして、古典語で書かれている書物を所有することが重要な基礎的な活動の一部となった。書物を軸とする文化の発展である。それと同時に、ヨーロッパ圏内、あるいはそれよりも広い圏内を対象にして、それぞれの地域の動植物と鉱物を観察して、その記録を印刷技術で再生産することも発展していた。自然界の観察を軸とした博物誌である。多くの医師たちが、書物と博物誌を合体させて優れた業績を発表し、コレクションを形成していた。Sir Hans Sloane は医師であると同時に、イングランドやヨーロッパとその周辺だけでなく、アメリカやジャマイカから植物を収集した大英博物館の基礎を収集した博物誌の学者であったし、Albrecht von Hallwer は、動物実験をもとにした科学者であると同時に、ドイツやスイスの植物学の権威でもあった。人文主義と博物誌の双方の発展は、ヨーロッパの初期近代を支える駆動力であった。
 
中国と日本においても、類似の現象が起きた。書物への関心と、自然への関心が共存するというパターンである。日本では、将軍や武将という武力を軸とする価値観と微妙な関係を持ちながら、書物と自然の双方を一人の人物が担うという傾向が強い個性とともに存在した。ことに1600年以降には、李自珍『本草綱目』が非常に重要な博物誌であり、日本ではそれに基づいて独自の博物誌を発達させていた時期には、書物と自然を存在させた。日本の重要な医師であり博物学者である小野蘭山は、『本草綱目啓蒙』を刊行したが、彼がその道に進んだ重要な契機は、中国の清国の陳扶揺が17世紀末に執筆した『秘伝花鏡』である。そこでは「ただ書物と花とを好む」生き方である。「半分は書物を調べ、残りの半分は園、林、花鳥に情を寄せている。世の人の多くは私を笑って「花癖」といい、「書痴」とよぶ。ああ、読書こそは儒家の務なのだから、どうして「痴」といえようか」という。儒家の傾向としての書物を読むこと、それが植物や花という自然物であること。このような志向を共有した蘭山も、同じよう数多くの書物を読み、本草に熱中してフィールドワークを行った。晩年は幕府に呼ばれて、江戸で医学生本草を教えると同時に、日本全国の地方を回ってフィールドワークを行っていた。