英語教育と「内なる外国人」の発想

北山修 et al. 「内なる外国人」: A病院症例記録. みすず書房, 2017. 
 
どう面白いのかよく分からないけれども、博士とポスドクの7年間を英語で訓練された自分はどうなるのだろうと考える書物。大きな訓練を英語や外国語でしている学者は考えると面白いと思う。
 
北山修とおっしゃる精神科医精神分析医がいる。数多くの書物、論文、一般書を書いてきた。若い頃はフォークソングの優れた作詞家として活躍し、『戦争を知らない子供たち』のように、私たちが今でも口ずさむ歌の多くを作詞している。京都府立医科大学を卒業した後に、ロンドンに行き、精神医学と精神分析を学んできた。その時の英語の症例記録を二つ収録したものである。その英語マテリアルを、若手の医師や臨床心理士たちが、翻訳し、解説や注釈をつけている。
 
この書物の成立、あるいは中枢である症例記録は、最初から英語と日本語の両面性を幾つかの段階において抱き込んでいる。まず現場で英語の精神医学を学ぼうとしている日本人であるという両面性である。英語で患者と接して患者を分析して変化を起こさなければならない。頭の中では日本人が日本語で考えている。その間で<わたし>という通訳がずっと機能している。外なる英語と内なる日本語という形で言葉が二つあり、自我は頭の中で、その二つに二股をかけている。
 
フロイトは、この二重性を、エディプス・コンプレックスを発展させて理解していた。人間は「自我にとっての外国」を持ち、それは精神の中にあって「内なる外国に他ならない」と言っている。その仕組みを、実際の人生と診療において二つの言語を実践していると考えたらいいのだろうか。北山は「海外で精神分析のことを学び、その実践を日本で行いながら、またそれを海外で発表したりを繰り返す」と考えている。これが「内外の境界に立つ」ことなのだろうか。そしてそこには「言葉の壁」がある。古澤平作の阿闍世コンプレックスや、土居健郎の「甘え」は、外国では理解されることが非常に少なかった。