ハンセン病と「アウスザッツ」という語の使い方

三井美澄『太平洋戦争と私』自費出版

ドイツ語を日本語の記述の中に混合させる手法として幾つかの基本的な文献がある。2006年に『医学界新聞』に12回にわたって連載された「教養としての医者語」という記事が基本的なものだろう。著者はディレッタント・ゲンゴスキーを名乗る御前隆(みさきたかし)先生である。面白い記事で、これもメモを取っていこう。

別の脈絡でたまたま出会ったのが、1940年に東大の医学部に入った三井美澄という優れた医師が書いた『太平洋戦争と私』という50ページほどの文章。同時の大学でどのようにドイツ語が用いられたかことにも結構言及されている。

たとえば、ビーコン 再試験 wiederkommen、パトロギッシェ・フィジオロギー 病理学 Pathologische Physiologie、プラクチカント 実習生 Praktikant、 ポリクリ 臨床実習 Poliklinik 英語では Bed Side Learning (BSL) などが記されている。

面白いのが「アウスザッツ」 Aussatz である。ドイツ語の意味はもちろん「ハンセン病」を指す。もともとは aussetzen という動詞の捨てる、遺棄するという意味である。ein neugebrorenes Kind aussetzen で「生まれた子供を捨てる」、jn. auf einer einsamen Insel aussetzen で「誰それを孤島に置き去りにする」という意味である。ここから、ドイツ語でも「遺棄される患者」の意味で用いられていた。

三井が記していることは、木下杢太郎(きのしたもくたろう)の筆名で有名な皮膚科教授の太田正雄が「アウスザッツ」を使った場面である。実習生がポリクリをしている中で一人の患者を診断できなかった。しかし太田がこの患者を一目見た瞬間に振り返って「アウスザッツじゃないか」と言って教室員を叱った。三井によれば「アウスザッツは癩の隠語である」という。それを聞いた実習生の顔からさっと血が引き、ポリクリを終えると、手や万年筆を丁寧に消毒した。患者がいる場面で「癩」という言葉を使えずに、「アウスザッツ」を使ったということだろうか。

少しネットを調べたら、渋沢男爵のノートなのだろうか、大正3年に帝国ホテルで光田健輔が行った講演も記されていた。そこでこのように記されている。

歴史一般 西洋には昔しから有つた旧約新約全書の所々にも書てあつて、其惨憺たる光景は聖者の同情を引いたのでありますが、併し此れが増加して参りましては家庭より追出し、乞丐を致す様に成り其乞丐の群は遂に市外に追出された、独逸語の『アウスザッツ』と云ふ意味は、病人を公衆の内より追出すと云ふことであります、此の乞丐の群を十字軍の前後から市外の病院に置き、二種の衣服及帽子を着せ、四つ竹叩いて賽銭箱に喜捨を受けるのである、又賽銭箱を癩病院の門前に吊して喜捨を受ける、後ちに癩病院が金持ちになり、堂々たる建築を構へ、乞丐をせないでも立派に公費で救助せられたとのことであります、此れ等の癩病院は一村一市の公立や、或は騎士の団体や、或は僧侶の団体で、貴族は常に此れが保護者でありました。
 仏王ルイ九世も癩病患者の同情者であらせられ、手づから治療されたり給仕されたりしたと云ふことであります、当時仏国のみにても二千の癩病院があり、欧洲の『クリスト』教国には千二百四十四年頃には一万九千の癩病院があり、熱心に離隔された結果十五世紀頃から英国・仏国・独逸・伊太利より癩病の跡を絶つた、爾来此の癩病離隔法は「ペスト」「チブス」「発疹チブス」に応用し、常に伝染病の予防撲滅に偉功を奏しました、彼の「ラツアレト」軍病院と申す字は、本と癩病院の守護神として祭りありたる聖「ラツアレス」より来りたると云ふことであります。

 

他に書いてあることも面白い。解剖学の時間にラテン語で骨の学名などを学んだこと、緒方富雄助教授がアメリカと日本の国力の差は20対1くらいだが、国力だけでは戦争は決まらないとも付け加えたなどの言及もある。